「放射する文化」と「受容する文化」――中国との関係で考える日本文化(下)
漢学から洋学へ・天皇の不可侵化
徳川家康の奨励によって、江戸時代には日本の儒教化が進んだ。しかし18世紀の末になると、官学としての朱子学に対し、同じ儒学でも古学、古文辞学などが隆盛し、幕府はこれに「寛政異学の禁」という一種の思想統制を行わざるをえないほどであった。さらに陽明学、国学に加えて蘭学(医学)、和算(数学)、暦学(天文学)、本草学(薬物学)なども発達し、江戸後期はあたかも中国春秋戦国時代における諸子百家のような状態ではなかったか。 僕は明治維新の文化的側面にもっと光を当てるべきではないかと考えている。 もちろん坂本龍馬や西郷隆盛も重要だが、彼らを導いたのは、藤田東湖、横井小楠、佐久間象山、梅田雲浜、頼三樹三郎、吉田松陰、橋本左内(生年順)といった学者であり思想家であった。多くは刑死し(安政の大獄)あるいは暗殺されているが、彼らがそういった過激な思想に走らざるをえなかったのには理由がある。この国の歴史に突然のように立ちはだかった西洋文明の本当の力(近代思想と科学技術)を敏感に察知したのは彼ら学者たちであった。その思想の頂点に「絶対神」を置く西洋列強の、世界的な植民地主義と帝国主義の圧力の下に、この国は絶望的に小さな辺境の島国であった。「知れば知るほど恐ろしい」その強い力が彼らを追い込んだ。そしてそれまでの漢学の蓄積における中国との文化関係、朝廷と武家政権との関係などを破壊的に見直し、やがて「尊皇」という思想の出現に行きつかざるをえなかったのではないか。 明治維新は、司馬遼太郎がいうように下級武士たちによる革命であったと同時に、彼ら学者たちによる思想革命、文化革命であったと思われる。その漢学から洋学への転換は、天皇を不可侵なものとすることによってのみ可能だったのではないか。 そして維新後は、西欧化という文明開化において、この国独特の「圧倒的受容力」が発揮された。さらに日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を経て、天皇=現人神、大東亜の盟主という概念が強く形成される。 司馬さんとは直接面識があって尊敬しているが、彼は広範な世界観と歴史観の中に武人を置いて泳がせた。逆に学者や思想家の内面から世界と歴史を眺望してみると「天皇=神」という思想の成り立ちが理解できるような気がするのだ。 こういった幕末から太平洋戦争への道程には、近代文明という物理力に対する日本文化の力学的帰結が感じられる。「文化力学」とはそういうことである。