コロナ禍の新年に考える「神社参拝とデジタル・コミュニケーション」
人は文化の力学から逃れられない
非科学的なことをいおうとしているのではない。 僕は中学生のときに、ニュートンの運動方程式とダーウィンの進化論を知って世界観に決定的な影響を受けた。工学博士でもあり、理系の国立大学で教鞭をとり、文科省の科学研究費も受け、一般の人よりはかなり科学的なものの考え方をする人間である。しかし科学主義者ではない。宗教原理主義がそうであるように科学原理主義もまた危険なものだ。実証できないことに関しては断定しないことこそ科学的態度であろう。もちろん非科学的断定によって利を得ようとする行為には要注意である。 また日本文化について書いてきたので文化ナショナリストといわれたこともある。心の中に多少の国家主義と民族主義があることは否定しない。しかしそれは誰の心にもあるものだ。今はむしろ、過激で偏狭なナショナリズムが国を害することを心配している。 僕がいいたいことは、人間の文化というものに現れる構造的な流体的な粘着的な力学的現象であり、人はその力学から逃れられないということである。ユングがそうであったように、人は誰も、個人的な無意識と生物的な無意識と文化的な無意識との葛藤の中に生きざるをえないのではないか。
デジタル・コミュニケーションと「胡蝶の夢」
「心」とは個人の意識の連続性であり「文化」とは集団の心の連続性であり「魂」とは心が強く凝縮し生物的個人の枠を超えていく存在であろう。 ここ数年のコロナ禍において接触が制限されたことから、人間のコミュニケーションの本質について考えさせられたのであるが、そこで触れないわけにいかなかったのは、ネット社会におけるデジタル・コミュニケーションという今日的問題である。たとえばズーム会議やズーム講義といったオンライン技術は、リアルの複数人をインターネットによって遠隔的にコミュニケーションさせるものであるが、最近考えさせられるのは、遺伝子ではなくAIを利用したデジタルクローン人間や、バーチャルリアリティが拡張された世界としてのメタバースなどにおけるコミュニケーションの問題である。デジタル技術が、生物的個人を超える現象を生み出しているのだ。 『荘子』の中の「胡蝶の夢」すなわち、荘子(原典では荘周)が夢で蝶になってヒラヒラと飛びまわり、ふと目覚めてから、荘子が夢で蝶になったのか、逆に蝶が夢で荘子になったのか分からなかった、という話が、これまでとは異なるリアリティをもちはじめたような気がする。 南アフリカの研究者によれば、オミクロン株には新型コロナウイルスのパンデミックを終わらせる兆候が見られるともいう。いずれにせよ、コロナ禍においても、いやむしろだからこそ、デジタル技術は日に日に進化し、人間のコミュニケーション環境は激変を続けている。われわれの「心」も「魂」も、何らかのかたちでその変化の影響を受けるのだろう。 正直にいえば、期待と同じ程度の不安を感じる。どこへ連れて行かれるのか。