日本人は集団主義? コロナ禍に考えるコミュニケーションの力
2021年もまもなく終わりを迎えます。1年遅れの東京五輪、岸田文雄氏の首相就任、大谷翔平選手の大活躍――など、今年もさまざまなニュースがありましたが、やはり新型コロナウイルス感染症のことを抜きには語れない一年でした。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏が、そんな一年を振り返りながら、考えたことを論じます。
コロナとコミュニケーション
年末である。この一年を振り返ってみれば、もちろん菅内閣から岸田内閣へのバトンタッチが大きなニュースであり、またスポーツというものの言語を越えたコミュニケーションの力を感じさせられもしたのたが、僕らの生活に圧倒的な影響を与えたのは、やはり昨年につづくコロナ禍である。今年はワクチンに焦点が当てられたが、昨年と同様、マスクをして三密を避け、会話による飛沫感染を防ぐことが強調された。 要するにこの2年間、人間と人間の接触が制限されたのであり、そのことによる不都合が大きく、人間は物理的にも精神的にもコミュニケーションによって生きているのだと感じさせられた。「人間は考える葦である」といったのはパスカルで、人間は葦草のようにとるに足らない弱い存在だが考える力があるという意味だ。しかし他の人間と会って親密に会話することのできない人間は本当に弱い存在なのだ。人生は、仕事も、生活も、娯楽も、医療も、かなりの部分がコミュニケーションで成立している。「人間はコミュニケーションする葦である」ということだ。 そこで対面に代わるオンラインという手段が注目された。インターネットをつうじて複数の人がコミュニケーションできるアプリの名をとった「ズーム〇〇」が流行語のようになり、会議や講演や授業などはかなり実施可能となって、場合によってはお茶会や飲み会などにも使われた。
意味の会話・空気の会話・心の会話
しかしもちろん「対面」との違いはある。オンラインでは会話の「意味」は伝わるが「雰囲気」は伝わりにくい。つまりネットでは「空気」が伝わらないのだ。日本人は意味より空気を重視するところがある。そこに悪しき「忖度」も生まれ、赤城さんのような悲劇も生じたことは残念であった。 人間のコミュニケーションには「意味」を重視するものと「空気」を重視するものがある。会議や講義は前者であり、お茶会や飲み会のおしゃべりは後者だろう。会議や講義といったものは社会的に重要であり、いわゆるおしゃべりは重要ではないと思われるかもしれないが、そうではない。人間はさして意味のない会話や接触が必要な生き物なのだ。 しかしそれとは別に、本当に心が伝わるコミュニケーションというものもある。コロナ禍において、数年ぶりに古い友人とメールを交わし互いの近況を伝えあって心が温まった。また感染者が激減したあと久しぶりに会って世情について議論したのも楽しかった。滅多に会わなくても、さほど話をしなくても、心のつうじあう友人はいるものだ。つまり人間のコミュニケーションは「意味の会話」と「空気の会話」と「心の会話」で構成されているのではないか。できれば、空気の会話を心の会話に転換していきたいものである。 コロナ禍は、コミュニケーションのあり方について考え直す機会でもあったのだ。