コロナ禍の新年に考える「神社参拝とデジタル・コミュニケーション」
新型コロナウイルスの変異株「オミクロン株」が日本でも猛威を振るい始めています。在日米軍基地周辺で感染が急拡大していることから、「基地由来では?」との指摘も出ているようですが、年末年始に多くの人が帰省などで移動したことの影響も無視できないでしょう。 日本人は集団主義? コロナ禍に考えるコミュニケーションの力 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、そんなコロナ禍で迎える2度目の新年、家の近くの神社に参拝しながら、改めて「これまでとこれからのコミュニケーション」について思索を巡らせたようです。若山氏が独自の視点で論じます。
日本人は何に祈るのか
元旦、近くの神社に参拝した。けっこう人が出ていた。特に有名な神社ではなく、小さな森の中にひっそりとしているところが気に入っているのだが、元旦となると参拝の人が列をなす。昨年はコロナ禍で参拝できなかったこともあるのだろう。他の神社も大変な人出だったようだ。ここへきて新型コロナウイルスがオミクロン株も加えて再び急拡大しているのは、この年末年始の人出の多さと、在日米軍が岸田政権必死の水際対策をくぐり抜けたことによるものか。年末年始と米軍、どちらも日本人の日常を超える力だ。 さて、その神社が何をまつっているのかは、よく知らない。参拝者のほとんどがそうではないか。日本人にとって新年の神社参拝は一つの節目であって、何に祈っているのかあまり気にしてはいないのだ。いわゆる「ヤオヨロズ」である。僕個人としては菅原道真をまつった天神様が好みなのだが、元旦などは人が多くて敬遠せざるをえない。 たいていの人は家内安全、商売繁盛、大願成就といったことを祈る。それは一年の抱負を明言することに似て、自分の心を整え、精神を律するのが目的ではないか。もう一つ、国民として日本文化に参加する安心感がある。あまり社会的とはいえない人も、日ごろ宗教とは無縁の人も、強い科学的世界観をもつ人も、正月は神社参拝によって心を新たにするのだ。 とはいえもちろん神社というものは、神話上の神々や歴史上の人物の霊魂をまつるのであるから、客観的にいえば、参拝はそこにまつられた魂と参拝者の魂を共振させる儀式といえようか。 昨年末、コロナ禍における「心のコミュニケーション」について書いた。年が改まって今回は「魂のコミュニケーション」について書いてみたいと思う。