コロナ禍の新年に考える「神社参拝とデジタル・コミュニケーション」
日本人の仕事
僕は建築の仕事をしてきたので「作品が形として残るのがうらやましい」とよくいわれた。たしかに建築も文章もまた弟子たちも世に残るので、そういう仕事ができたのは幸せだったかもしれない。しかし形を残すことが本旨ではない。むしろそこに自分の「魂」が伝え残されるような気がするのがうれしいのだ。 考えてみれば誰でもそうではないか。仏師は仏像に魂を込める。刀鍛冶は刀剣に魂を込める。大工は柱梁に魂を込める。料理人は料理に魂を込める。音楽家は演奏に魂を込める。新聞記者は記事に魂を込める。俳人は5・7・5に魂を込める。日本人は誰も、自分の仕事に魂を込めているのだ。 そしてその仕事が何らかのかたちで、次の世代に伝えられ、また次の世代に伝えられていく。その連続性が文化である。日本人は誰も、先人の魂を受け継ぎ、自己の魂を次の世代に伝えることによって、日本文化を受け継ぎ伝え残している。 この列島の大地に、山に、森に、川に、その風景に、建築に、着る物に、食べ物に、道具に、言葉に、文章に、芸術に、技術に、日本文化を構成する魂が伝承力を放っている。われわれはその力の中に生き、無意識のうちに文化伝導者となっているのだ。 もちろんそういったことは他の国にもあるのだろう。人間は文化の大地から切り離された浮遊物としての個人ではない。
文化的無意識
話は変わるが、ニューヨークのコロンビア大学の客員研究員だったとき、ある教授の紹介でグリニッジヴィレッジにあるニューヨーク大学の職員の部屋を借りた。 アップタウンのコロンビア大学まではだいぶ地下鉄に乗らなくてはならないので、すぐ隣のニューヨーク大学構内を散歩したりカフェで食事したりしたのだが、そこにあった書店でカール・ユングの論文集を買って読みふけった。英語ではあるが、日本語に訳されている著書や論文は少ないので、ユングの「集合的無意識(collective unconscious)」という概念に興味をもっていた僕にとっては貴重なものであった。 ユングは、かつて影響を受けたフロイトが、人間を普遍的な個としてとらえ、その幼児体験、特に性的なものを重視しすぎることに反発し、人類に共通する集合的無意識、そこに現出する表象のアーキタイプ(心理学的元型)に着目した。しかしその「集合」という概念が、ナチズムのように特定の民族や文化に利用されることを恐れて、あくまで人類共通のものとしてとらえた。集合的無意識やアーキタイプは、言語的文化的なものではなく、先史的生物的概念だとしている。だが同時にそれを「言語的文化的な表象」を形成するもとになる「傾向」であるとも述べている。 つまりスイス人であるユングはその学説を、ユダヤ人らしい普遍主義者であるフロイトと、そのユダヤ人を弾圧しドイツ民族主義を称揚したナチズムという、その時代に現象した人間心理の二つの極の中間点に置いているのだが、僕は建築と文学から日本文化を研究して「文化的無意識」というものを想定せざるをえなかった。 つまり人間には、生物的な無意識とともに文化的な無意識が存在し、前者はDNAによって人類の中に継承され、後者はさまざまな文化表象によって民族や宗教や言語や文字によって規定される集団の中に継承されるということだ。そしてその文化的無意識を構成する要素としての「魂」というものを考えたのである。