大江健三郎の「26年にわたる担当編集」が、たった一度「大江さんを本当に怒らせてしまった」意外な理由
作家・大江健三郎氏の全集『大江健三郎全小説』が、このたび異例の重版となりました。全集ができあがるまでにはどのような苦労があったのか。26年という長きにわたって著者に伴走した編集者の山口和人さんが、大江氏との思い出、全集の来歴を語ります。 【写真】これは貴重…大江健三郎さんの「生原稿」
超一流のエンターテイナー
大江健三郎さんが亡くなられてから2年近くが経とうとしています。年が明ければ生誕90年です。編集担当者として初めて大江さんにお会いしたのは、30年前の1994年6月17日のことでした。大江さん59歳、ノーベル文学賞受賞の4ヵ月前でした。 その後講談社を定年退職するまでの26年余、何度ご自宅に大江さんをお訪ねしたことでしょう。手帳を見ると通算200回以上。毎回呼び鈴を押して家に招き入れられるときの張りつめた気持ち。しかし辞去するときまでにはすっかり寛いだ気分になっています。なぜなら大江さんは、人を楽しませることにかけては超一流のエンターテイナーだからです。 どれほどの文学論が、どれほどの文壇エピソードが、どれほどの人生の思い出話が、どれだけユーモラスに語られたことでしょうか。三島由紀夫から手紙が来たこと、武満徹とのケンカ、安部公房にドライブに誘われたこと……なぜメモを取らなかったのかという後悔と、なんて贅沢で楽しい時間だったのだろうという双方向の思いに身が捩(よじ)られます。 そして、「今度こういう小説を考えています。あなたのところでお願いします」とお聞きして帰る道すがらの喜び・興奮と身の軽さ。さらに大部な原稿を預かって電車に乗って帰社するときの緊張と、早く読みたいという武者震い。振り返れば長編小説6作と、エッセイ集4作をお任せいただきました。 ご自宅で託された御原稿は、決して寄り道せずに編集部に持ち帰って直ちに読み始めます。書き下ろしの場合は原稿用紙数百枚以上に及ぶので、最低でも読了までに2~3日はかかります。清書されておらず挿入・削除が繰り返されたその御原稿は、一種のモダン・アート作品さながらです。どの文章がどこに繋がっているのか、目と指でたどりながら読んでゆくことになります。 そして読み終わればFAXで感想をお送りします。A4でびっしり2~3枚ほど。これが書き下ろしならまだいいのです。なぜなら一度に作品全体を俯瞰できますから。最後の小説となった『晩年様式集(ルビ:イン・レイト・スタイル)』の時は文芸誌「群像」での毎月連載でしたので、毎月御原稿をいただいて、いただいた毎に感想をお送りすることになりました。 しかしそれにしても、見当違いの感想だったらどう思われるだろう……きっとガッカリされるに違いない、担当として不甲斐ないと思われたら信頼を失ってしまう……こうして著者自身を相手にした“読書感想文”の答え合わせが続いてゆくことになります。翌朝までには私がお送りした感想の空きスペースに、大江さんのコメントが書き加えられたFAXが返送されているのです。