「もうひとつの民主主義」が生まれる条件とは? 「市民型民主主義」と「人民型民主主義」を比較する
権力発現の「統制」原理と「交換」原理
「統制と交換」というのは、僕がこれまで人間集団の形成原理として考えてきたもので、統制は集団を主体に、交換は個人を主体にした権力の発現形式である。一般に統制型の集団は所与のもの(国家や家族)として、交換型の集団は参加するもの(友人や企業)として存在する。 人間は個人で存在するときは自由であっても、集団になれば何らかのルールに縛られる。その集団のルールが厳格であり、上位から下位への命令系統が強い場合は「統制」の力を感じる。また集団が個人の連帯として機能する場合、個人はその一部としての役割を分担し、自己の有する物や能力をその代価と「交換」する。人間の集団は「統制と交換」という二つの原理によって構成され、その外部を巻き込んで成長していく。また集団における個人の役割が均質である場合は統制型になりやすく、人によってそれぞれ異質である場合には交換型になりやすい。 これまで見てきたように、A型(=西側型民主主義)は交換型の権力であり、B型(=権威型民主主義)は統制型の権力である。 統制型の権力においては、宗教教育、道徳教育に重点を置き、集団としての思想統制に向かいがちである。交換型の権力においては、個人の才能を重視し、分業によって集団を発展させることから科学技術に重点を置く傾向にある。交換では思想が知識に寄り添い、統制では知識が思想に寄り添うのだ。 統制型の権力はその主体が固定的であり、静的安定に向かい、権威主義的になる。交換型の権力は時代の変化とともにその主体が変化し、動的安定を旨とする民主主義に向かう傾向がある。当然のことながら、経済運営においては、統制型の権力は社会主義経済に、交換型の権力は市場主義経済に向かう。 またあらゆる集団は、統制的であると同時に交換的でもあり、国家もまた時代によって、統制的な部分が強くなったり、交換的な部分が主流になったりする。16世紀に起きたような文明エネルギーの移動が起きる可能性もある、というより実際に起きつつあるのだが、その移動は周縁から中心への再転換というより、グローバルサウス(南半球の途上国をさす)も含めた、さらなる周縁への分散となるように思える。とはいえその行く手には、工業文明による温暖化問題が横たわっていることを忘れてはならない。 以上、仮説を交えて論を進めてきたが、人間あるいはその集団を、あまりに決定論的に考えるのは良くないことだ。特に「西側」に属する、あるいは属すると思っている側は、これまでの環境決定論や歴史的必然論が、大いなる偏見に結びついて大いなる悲劇を生んできたことを反省すべきである。