地図記号から見えてくる、電気の歴史。電灯の普及により、消えた記号とは
◆「電信線」の記号 さて、昔の話に戻ろう。現在は2万ボルト以上に限定される「送電線」だけになった電線記号も、かつてはもうひとつあった。「明治24年図式」で定められた「電信線」である。 東京―横浜間に電信が開通したのは、日本初の鉄道が開業する3年前の明治2年と早い。 これに対して「電灯」の方は遅れた。かのエジソンが実用的な白熱電球を開発したのが明治12年なのだから無理もない。 その「メンローパークの魔術師」が点灯デモンストレーションで大喝采を浴びてから3年後の同15年、銀座にアーク灯が登場した。これが日本国内における電灯の嚆矢で、家庭配電が行われたのは同20年からである。 電信線の記号は細線に串団子のように黒丸を一定間隔で連ねたもので、「明治33年図式」では同じ記号が「電線」に変わる。 ちょうど西暦1900年にあたるこの年に電灯照明が20万灯を記録し、普及が本格化したのと軌を一にしたものだろう。従来の電信線と新たに加わった電力線の両者を含めて図上に表記したと思われる。 「明治42年図式」では前述のような高圧送電線が登場したことにより、黒丸で細線をはさむタイプの「電線(特別高圧)」と従前の串団子の「電線(普通)」に分類されるようになった。
◆電灯が普及したあとの地図 その後、戦前の代表的図式である「大正6年図式」では「電線(高圧)」「電線(普通)」と2分類したのだが、同じ図式が引き続き適用されているはずの昭和10年(1935)に刊行された部内資料『地形図図式詳解』(陸地測量部)には「電線(高圧)」と「電線(通信線)」のように分類が改訂されている。 一般家庭に電灯がかなり普及したこの段階では、街中に張り巡らされたものを律儀に描く意味がなくなったからだろう。 これを反映したかのような記述が同書にある。「山間僻地等ニ稀ニ存スル電灯線ノ稍(やや)長ク連絡セルモノノ如キハ之ヲ描クコトアリ」というくだりだが、この頃にはすでに市街地や人里に高密度で張られた普通電線は対象外となっていたはずだ。 戦後の舗装道路の記号がほどなく廃止されたのと同様、対象があまりに増えると煩雑になり過ぎるし、そもそも記号化する意味がなくなる。 なお関西地区で明治17年から整備された「仮製2万分1地形図」の図式は「電線」の表記であるが、時代から判断して電信線らしい。 電信開通時、「ハリガネがいち早く手紙を届けてくれると聞いて、電線に手紙をくくり付けた」という都市伝説もあるが、それから150年でずいぶんと世の中は変わったものである。 ※本稿は、『地図記号のひみつ』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
今尾恵介