地図記号から見えてくる、電気の歴史。電灯の普及により、消えた記号とは
◆発電所の記号の由来 ところで、この記号の由来は何だろうか。『地図記号のうつりかわり』などには「歯車と電鍵」とあるが、電鍵といえばモールス信号を送るときに手で打つ器具だから発電所には場違いだ。 「明治42年図式」の解説書『地形図之読方』で調べてみると、「歯輪ニ電鑰(でんやく)ヲ付シタルモノ」とある。電鑰など字さえ見たことがなかったが、漢和辞典によれば「鑰」は「かぎ」や「じょう」の意という。 勝手な想像だが、水力発電に使われるフランシス水車を横から見たとして、羽根車(ランナー)を歯車の図形、その外側の案内羽根(ガイドベーン)をこのカギ形で表しているのかもしれない。 なおこの記号は明治大正期の図式に「発電所」とあるが、運用としては変電所も含まれている。両者が区別されたのは「昭和30年図式」と「昭和35年加除式」だけだ。 京都電気鉄道は当初、琵琶湖疏水由来の電気を使う究極の「エコ電車」としてスタートしたが、疏水の水藻を刈る作業のため発電所の運転を月に2日ほど止めたので、これに合わせて電車も運休となった。 なんとも牧歌的な時代であるが、路線も延長されて乗客数が増えると間に合わず、明治32年には石炭火力発電所を街外れに設置した。 初めて高圧長距離送電に成功したのは、東京電燈(現東京電力の前身のひとつ)が山梨県北都留(きたつる)郡広里村(現大月市)に設置した駒橋発電所である。 現在でも中央自動車道や中央本線の車窓から見えるこの発電所は明治40年に竣工、東京の早稲田配電所(変電所)まで76キロに及ぶ送電が行われた。 ちなみに早稲田配電所は周囲が田んぼであった頃の神田川畔に設けられ、大隈重信邸(現大隈庭園など)のすぐ近くにあった。現在は完全に市街化したが、今でも東京電力早稲田変電所として稼働している。
◆「送電線」の記号 長距離送電の際には送電ロスを最小化するため高圧にして送るのだが、このため普通の電線とは異なる高い鉄塔に電線を張った「送電線」が各地に出現した。従来の電線とは異なるので、それ専用の新しい記号も明治42年に登場している。 「電線(特別高圧)」という記号で、細線の両側に小さい黒丸をペアで配するものだ。これは「昭和30年図式」以来の「送電線」に引き継がれ、現在では点の間隔を6ミリと決めている。 ただし存在する送電線を全部描くわけではなく、「平成14年図式」では「20kV以上の高圧電流を送電するものに適用し、特に目標として価値のあるもの」に限っている。 さらに「鉄道、道路と平行し、相互の間隔が20m未満の場合は、重要なものを除き省略する」とし、その他に地中の送電線や20メートル未満の間隔で平行するものは一方を省略するなど規定がある。 送電線のもうひとつの特徴は、道路と交差する部分で道路を必ず上に描くようになっていることで、まるで半地下の電線のような違和感を覚えるかもしれない。 もうひとつ、送電線を支える鉄塔も原則として描かれない。「高塔」の記号の規定でも「送電線鉄塔を除く」とわざわざ記している。 要するに対象が多過ぎるためだが、実際にどこに鉄塔があるかについては、まずは送電線が屈曲している部分には必ずあるし、尾根を越えている部分にもある可能性が高い。 これは両側の土地の高さを見比べれば判断できるだろう。昨今の「地理院地図」(インターネット)なら空中写真モードも簡単に閲覧できるので、鉄塔があるかどうかはそれですぐ判明する。