なぜフランス文化とイスラム文化は風刺画を巡って争うのか 触れてはならない「文化的逆鱗」
裸体・自然・抽象
ヨーロッパの街を観光してふと気づくのは、やけに人体を、それも「裸体」を観て歩いているということである。美術館ではギリシャ神話をモチーフとする絵画や彫刻で、アポロンやディオニソスといった神々は裸体で表現されるのだ。教会堂では、十字架にかけられたイエスや、ドームの天井を舞う天使、「最後の審判」で天国と地獄に分かれる人々の絵画や彫刻で、これも裸体または半裸体である。近代以前のヨーロッパ視覚文化の中心は人体でありしかも裸体なのだ。 一方、中国や日本など東アジアでは、視覚文化の多くが「花鳥風月」という自然の景物をモチーフとしているので、僕らはヨーロッパの街を歩いて「裸体疲れ」を感じることもある。 そしてイスラム圏の視覚文化には、人体も花鳥風月も登場しない。それは偶像崇拝が厳しく禁じられているからで、その代わりに「アラベスク」と呼ばれる華麗な抽象模様が発達した。西洋と東洋、そしてその中間では、人々が観ているものに、文化としての視覚に、大きな違いがある。
戒律の価値観
僕らはイスラム文化について実感としての知識が豊かとはいえない。しかしまずおどろくのはその戒律の厳しさである。1日に5回の礼拝、年に一度は断食の月がある、豚を食べてはいけない、酒を飲んではいけない、女性は近親者以外に顔と手以外を見せてはならないなど、僕らの日常生活からはかけ離れたものだ。なぜ彼らはそのような厳しい戒律を守っているのだろうか。 人間の欲望には限りがない。その欲望を満たすために限りなく文明を発達させるのが西欧の価値観であるが、東洋人としては疑問を感じる部分もあり、むしろ欲望を制御することに共感を覚える。「足るを知る」というやつだ。イスラム文化はそれを極端に進め、欲望を禁止するのである。その戒律文化の埒外にいる僕らには理解できないところもあるが、全世界に広がるムスリムの数を考えれば、決して特殊な文化とはいいきれないだろう。 偶像崇拝の禁止というのは、そういった日常的な戒律以上にイスラムの教義の根幹をなすものだ。逆に考えれば、偶像をつくり表現するというのは、人間の強い欲望のひとつということだろう。非イスラム社会における絵画や彫刻から、偶像崇拝的な部分を一切削除することはとても考えられない。 偶像崇拝美術も一つの文化であり、偶像崇拝を禁じる美術も一つの文化であるというべきか。しかし禁じる方にとってはそれ(禁止)が「命がけで守るべき価値」なのだ。ましてや、預言者(創始者)の風刺画など、もってのほかということになる。