なぜフランス文化とイスラム文化は風刺画を巡って争うのか 触れてはならない「文化的逆鱗」
偶像の系譜
旧約聖書においてモーセが黄金の子牛を破壊したように、ユダヤ教においてもキリスト教においても、基本的には偶像崇拝は禁止されている。しかし古代ギリシャ文化の象徴ともいうべき「写実彫像」の影響を受けて、ローマ帝国からヨーロッパへと伝わったキリスト教においては、聖堂建築を飾る壮麗な人体偶像文化が発達した。いってみればキリスト教の聖堂は「偶像の家」である。つまりキリスト教文化は、理念としての聖書と、実体としてのギリシャ文化の融合であるといっていい。 どちらかといえば西欧のローマン・カトリックでは建築と一体化した彫刻やステンドグラスが発達したが、東欧のギリシャ正教では特に板絵の「イコン=聖像」が発達した。そして「欲望の文明」ともいうべきローマ帝国の東の周縁からスタートしたイスラム教が、キリスト教の偶像文化に対して、徹底した偶像否定の論理を貫いたのも「戒律の文化」としては当然であったかもしれない。 そしてあれほど人体にこだわっていたヨーロッパの絵画も、時代とともに、その対象がギリシャの神々やキリスト教布教の物語を離れ、宮廷の人物に移り、市民の生活を経て、自然を描くようになる。やがて印象派からキュビズムなどを経て抽象表現(アブストラクト)へという絵画革命を経験するのだ。現代絵画でイスラム模様(アラベスク)に似たものも少なくない。 教義に従って偶像を禁止するのか、むしろ偶像文化と妥協することによって教義を拡大するのか、この対照は、人類の視覚文化の歴史に大きな差異をもたらし、大きな価値観の違いとなって現代にまで受け継がれている。彼らの文化意識の底流には、日本人のわれわれには想像しにくいほどの、激しい葛藤のマグマがうごめいているのである。
ネット時代の「偶像=アイドル」と「聖像=アイコン」
「鬼滅の刃」というマンガ・アニメが社会現象となっている。少し前に韓国のBTSというKポップグループの経済効果が報じられた。どちらも一種の「アイドル=偶像」文化であろう。かつては映画スターやスポーツ選手がアイドルであったが、メディアの発達によって、バーチャルな人工的なアイドルが創造され、生身のアイドルもそのイメージに近づいている。 またコンピューターがメインフレームからパソコンに代わって、画面に現れる「アイコン(イコン)」が重要な役割を果たすようになった。マッキントッシュやウィンドウズの登場によってギリシャ正教のイコン=聖像が「新しい世界を開く窓」として、現代のコンピューター技術を変えたのだ。 つまり近現代のメディアとコンピューターとインターネットの社会において、それが偶像と呼ばれようと、聖像と呼ばれようと、「人工的な画像」の力はなくてはならない存在である。AIや5Gの時代、われわれはきわめて高度な画像技術の世界に生きているのだ。 人類は、みな同じ世界を観ているわけではない。文化によって、時代によって、観る世界が異なるのだ。金融や情報のグローバリズムは進んでも、こういった視覚文化の壁を乗り越えることは簡単ではないようだ。 振り返って、アメリカ大統領選におけるトランプ派とバイデン派、東アジアにおけるアメリカの覇権と中国の覇権、わが国における政治権力と学術権威、そういった紛争現象は、いかにも俗っぽい権力闘争ではあるが、実はその裏に、多少とも似たような文化的葛藤が潜んでいることを感じる。 人類は、新型コロナウイルスという共通の敵と戦いながらも、文化的な戦いの手を緩めることはないようだ。個人も、集団も、触れてはならない「文化的逆鱗」があるからこそ、プライドをもって生きることができるのかもしれない。