家族4人で電気代は月4千円。「世界一脱炭素に熱い」アナリストのエネルギー自給自足生活#豊かな未来を創る人
医者から死ぬ確率を聞いて一番怖かったこと
── 脱炭素を通したエネルギー自立と地方創生。どちらも前田さんが目指す先は、国を良くしたいということです。その大義を抱くきっかけは何だったのでしょうか。 一つ大きかったのは、大学時代の出来事です。当時の僕はアメリカンフットボールのU19日本代表選手に選ばれるなど、スポーツに没頭していました。そんな大学生活が終わる頃、脊髄に腫瘍があるとわかり手術をすることになったんです。 手術前日、医師から言われたのは、手術中に死ぬ確率があるということでした。首の動脈に腫瘍が癒着しているため、剥がすときに出血すると即死だと。それから、下半身不随になる確率についても説明を受けました。 その話を聞いて、20代前半だった僕が一番怖かったことは、やはり死ぬことでした。手術台で麻酔をして目を閉じる瞬間が、人生の最後になるかもしれない。手術を迎える前日、病院のベッドの上でさまざまな考えが頭の中を巡りました。 自分の人生にはやり残したことがたくさんあるなと。結婚もできなかった。子どもの顔も見られなかった。そう考えていくと、人生の最後に一番したかったことは何だろう?と。そこで気づいたのは、家族やアメフトの仲間、恩師などこれまで自分に関わってくれた人たちに、せめて恩返しをしたかったという思いでした。もしも手術から生きて帰れたとしたら、その人たちに必ず恩返しをしようと決めました。 そしてその手段を考えたときに、一人ひとりではなく、日本という国全体を良くしていけば、自分の大切な人たち全員を笑顔にすることができる。それこそが大きな恩返しになるだろうと、直感で思ったのです。 手術は成功でした。僕は日本を良くする手段として外務省で働くことにしました。
── 外務省に入ってから、どのような経緯で脱炭素というテーマに注力するようになったのでしょうか。 外務省で働き始め、発展途上国の開発支援や原子力外交、官房業務などに携わりました。2015年にパリ協定が採択され、世界中で脱炭素の機運が高まる中、2017年に外務省における気候変動の総括を担当する辞令が出ました。 そもそも気候変動というのは、長い間本気で取り組む国はあまりなかった。それは「環境保全」と「経済成長」が相反するものだったからです。ですが2010年代に入ってから、太陽光発電のコストが大幅に下がる技術革新が起きました。そこから各国がドミノをひっくり返すように、一斉に再生可能エネルギーを導入する方向に舵をきり始めたのです。ところが、日本だけは従来の化石燃料ありきの体制から脱却できず、世界の動きに大幅な遅れをとってしまった。このままではこの国が取り残されていくのではと、大きな危機感を抱きました。 そんな中、2019年に開催されたのがG20大阪サミットでした。僕は気候変動部分の首脳宣言の草案や各国間の調整を担当しました。各国の立場や利害がまったく異なる分野であるだけに非常に難易度の高い調整となりましたが、20か国すべての合意を取りつけて、首脳宣言の採択に漕ぎ着けることができました。 「環境を守ろう」という崇高な目標の裏にある、各国の真の思惑を読み解く。その過程を経て、改めてこれから脱炭素というテーマは世界においてものすごく大きなテーマになるだろうと確信しました。脱炭素に成功した国から権力を獲得していき、世界の勢力図も大きく変わるだろうと。 社会において、電気やエネルギーを使わないセクターはない。世界経済はすべてエネルギーによって回っていると考えたときに、これは人生をかけるに値するテーマだと思ったんです。 ── そこから外務省を退職。再生可能エネルギーによる発電や保守運用、電力小売り事業などを手掛けるベンチャー企業へと転職されました。新たなフィールドに移った理由は? 行政から一歩出て、さまざまな人の心に火をつけて変化を起こしていきたいと思ったんです。というのも行政ができることを例えると「橋を作ること」なんです。でも、その橋を渡りたいという人がいなければ意味がない。つまり脱炭素を推進する枠組みを作っても、そこに乗っかりたいと思う人がいなければ意味がないわけです。だからこそ、まずは脱炭素について多くの人に関心を持ってもらいたいと考えました。 再生可能エネルギーを扱う事業会社に転職し、脱炭素メディアの編集長として記事配信をしたり、「脱炭素Youtuber」 として動画配信を行ったりしました。より広い範囲の人たちが脱炭素に向けての行動を起こすきっかけとなる知識を提供できたらと考えたのです。