約44万枚の大ヒット作「東京音頭」はなぜ誕生したのか?大正12年、浅草や有楽町が繁盛するなか、日比谷に人が集まらなくなって【小唄勝太郎生誕120周年】
◆「東京音頭」が与えた影響 「東京音頭」が全国的に売れたため、ビクターはその旋律を生かして、西條に全国各地の特色を盛り込んだ「東京音頭」の替歌を作らせた。 昭和9年(1934)5月に「満州音頭」、10月に「北海道音頭」「東北音頭」「東海音頭」「中国音頭」「四国音頭」「九州音頭」「台湾音頭」「朝鮮音頭」、12月に「北陸音頭」が発売された。 歌詞はそれぞれ異なるが、旋律は「東京音頭」である。しかし、90年以上踊り続けられているのは、本家本元の「東京音頭」しかない。 昭和歌謡史の本では、「東京音頭」を昭和恐慌からの不況や、満州事変による非常時などの時代の閉塞感から逃れるための乱舞であったなどと書くものが多い。明治維新の「ええじゃないか」と対比して昭和維新の「東京音頭」などと位置づけている。 しかし、これは安易な発想であって、根拠にも説得力にも欠ける。 「丸の内音頭」の企画からはじまる音頭ブームを考えると、不況対策としての経済振興という前向きな躍進としての原動力であったと見るべきである。 事実、「東京音頭」が東京から大東京への発展を示したように、大都市への躍進を願うその地の振興曲が全国に登場するようになる。 ※本稿は、『昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
刑部芳則