約44万枚の大ヒット作「東京音頭」はなぜ誕生したのか?大正12年、浅草や有楽町が繁盛するなか、日比谷に人が集まらなくなって【小唄勝太郎生誕120周年】
◆日比谷を活性化させるために 大正12年(1923)9月1日の関東大震災後には、娯楽のメッカであった東京浅草は江戸情緒を感じさせる場所として、銀座に近い有楽町はモダニズムの繁華街として集客するようになる。 それに比べて日比谷界隈は火が消えたように、静かになってしまった。 松本楼(レストラン)の小坂光雄、更科(そば屋)の藤村源三郎、富可川(おでん屋)の井上忠治郎など飲食店の店主たちは、人の流れが変わってしまったことに嘆息し、日比谷を活性化する企画を思案した。 地方では盆踊りを開くと大勢の人が集まるが、東京は地方から人が移り住んできたため民謡がない。そこで丸の内界隈の民謡を作り、日比谷公園で盆踊りを開催することを計画した。 その曲作りをビクターに依頼した経緯には、井上が西條八十を知るカルピスの社長三島海雲を介して依頼したという証言と、舞踊家の花柳寿美の内弟子であった藤村の娘を介して依頼したという証言とが残されている。 どちらにしても、作詞の西條と、作曲の中山晋平につながる筋道を得ていたことになる。 こうして昭和7年(1932)6月に発売されたのが「丸の内音頭」である。表面を藤本二三吉、裏面を三島一声が歌っている。中山は「鹿児島おはら節」を前奏に用いる形で作曲した。
◆「東京音頭」フィーバー 日比谷公園で昭和7年8月15日から20日まで「丸の内音頭踊り」を開催し、18日にはラジオで全国に「丸の内音頭」が放送された。 これが盛況に終わったこともあり、昭和8年7月にビクターは「東京音頭」(作詞:西條八十、作曲:中山晋平、歌:小唄勝太郎、三島一声)と改題して発売した。 東京市は昭和7年10月1日に5郡82町村を合併し、従来の15区から35区に拡大編成され、人口520万を有する世界第2位の都市となった。大東京にふさわしい新民謡が誕生した。 西條は「この音頭が揃い手拭、揃い浴衣ではじめて踊られたあの日比谷公園のすずしい月の夜を、わたしは永く忘れないであろう」「念願のひとつだった、生れの東京に盆踊をつくることは、この「東京音頭」でうれしく果された」と記している。 盆踊りの時期を過ぎても「東京音頭」の熱は冷めなかった。昭和8年10月8日の御会式では池上本門寺に向かう行列で団扇太鼓を使いながら「東京音頭」の大合唱が起こった。 10月21日の大学野球の早慶戦では、入場券を求める観覧客が徹夜で神宮球場に並んだが、客たちは「東京音頭」を歌って夜を明かしている。「東京音頭」は44万2200枚の大ヒットとなった。