約44万枚の大ヒット作「東京音頭」はなぜ誕生したのか?大正12年、浅草や有楽町が繁盛するなか、日比谷に人が集まらなくなって【小唄勝太郎生誕120周年】
日本には、長きにわたって愛されてきた<昭和歌謡曲>が数多くあります。日本人は、なぜ昭和歌謡曲に魅了されるのでしょうか?日本近代史を専門とする日本大学商学部准教授・刑部芳則さんの著書『昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで』から一部を抜粋し、当時の時代背景とともに懐かしの名曲を振り返ります。今回のテーマは「小唄勝太郎と『東京音頭』」です。 【書影】人々の心をとらえた昭和歌謡曲が生まれた背景と、その特徴を炙り出す。刑部芳則『昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで』 * * * * * * * ◆小唄の女王・小唄勝太郎の人気 芸者歌手のなかでも、小唄勝太郎の人気は高かった。それはレコードの売上げ枚数で10万枚以上(昭和40年代以降の約100万枚以上に相当)の曲が複数存在することが証明している。 小唄勝太郎は、明治37年(1904)11月6日に新潟県中蒲原郡沼垂町(現・新潟市中央区)に生まれ、昭和49年(1974)6月21日に逝去している。令和6年(2024)は、生誕120周年、没後50周年にあたる。 昭和4年(1929)から日本橋葭町で芸者として活躍していた。当初は葭町勝太郎と称していたが、すぐに小唄勝太郎と改称した。これは小唄を歌わせたら日本一という意味である。 昭和8年(1933)1月に発売された「島の娘」(作詞:長田幹彦、作曲:佐々木俊一)は、伊豆大島で椿油を搾取する娘の恋心を題材にしていたが、42万5300枚という驚異的なヒットとなった。 同年6月の「大島おけさ」(作詞:西條八十、作曲:中山晋平)は、勝太郎の郷里の民謡「佐渡おけさ」を伊豆大島向けに変えたものだが、18万7500枚のヒットを打ち出した。 さらに同年12月には「佐渡を想えば」(作詞:長田幹彦、作曲:佐々木俊一)で16万1500枚を売上げている。
◆ハァ小唄 美人の市丸に対して、可愛らしい勝太郎は対照的である。当時は「市勝時代」「勝市時代」と呼ばれ、その後もよきライバルとなった。 昭和8年の市丸の「天龍下れば」、勝太郎の「島の娘」「大島おけさ」「佐渡を想えば」は、いずれも歌い出しが「ハァー」で始まるため、「ハァ小唄」と呼ばれた。 「ハァ小唄」には、鶯歌手とも呼ばれた芸者歌手の美声はもとより、10代の頃から小唄や端唄の修業を積んだ芸者の独特な間合いと節回しのよさが生かされている。 昭和11年(1936)1月には勝太郎の半生を描いた自叙伝的映画『勝太郎子守唄』が作られ、その同名主題歌と、「島の娘」をくずした「勝太郎くづし」(作詞:宇津江精二、作曲:佐々木俊一)のカップリングが発売された。これも10万枚を記録した。