激しさを増す水害に思う 温暖化という「新しい風土」に「新しい居住文化」を
近代文明による技術の変化
しかし近代文明は、世界各地の風土に育った建築様式を一変させ、もちろん日本の建築様式も一変させることとなった。 18世紀英国における良質な鉄の量産によって、それまで釘や鎹(かすがい)やドア金具といった部分的な使われ方にとどまっていた鉄が、鉄骨造、鉄筋コンクリート造というかたちで、建築の主構造として使われるようになる。それに加えて、やはり量産された板ガラスや金属パネルやボード類が外壁として使われる。 建築が工業生産となり、暑い地域でも寒い地域でも空調するのが当たり前、世界中どこでも同じ「国際様式」という概念が誕生した。それがモダニズム(近代主義)というものであり、ル・コルビュジエというカリスマ建築家も登場したのだ。 日本では、関東大震災以後この変化に拍車がかかった。「防火、耐火」を主旨とした建築基準法によって木造建築はいちじるしい制限を受ける。今も木造は残っているが、かつての風土に育った味わいはない。深い陰影をつくる軒や庇や縦格子は失われ、モルタルやボード類に覆われ、木造という言葉は単に、鉄骨や鉄筋コンクリートより安価な構造材という意味に貶められたのだ。 たしかに火災には強くなった。 地震にもかなり強くなった。 それでも近年まで、日本の建築は欧米に比べれば短期間で取り壊されることが多かった。しかし現在は、新耐震設計が普及し、超高層ビルが建ち並ぶようになり、そういった建築構造をインフラと見なす傾向が出てきたのである。堅固な建築によって人と家財を守るという感覚が根づいてきたのだ。 つまり長期的には、近代技術という文明が少しずつ、古来の風土に根づいた居住文化を変えていく時代が続いたのである。
ウイルスと温暖化は「新しい風土」
新型コロナウイルスによって、「三密」を避ける意味でも、首都圏より地方の暮らしが脚光を浴びているようだ。しかし実際の(地方)生活は簡単ではない。逆に疲弊していることが指摘される。経済的にも、文化的にも、防災上も、生活基盤を強化する必要があり、地方には地方の都市集約が必要なのだ。 これまで中高層の集合住宅は、地価の高い都心居住に必要不可欠なものと考えられてきた。しかし地方の過疎化が進み、介護が必要なお年寄りが増え、限界集落という言葉が出る今日、むしろ地方にこそ集合居住の概念が必要とされるのではないか。 もちろん都会の公共住宅やマンションのようなイメージのものではない。自然環境の中の暮らしに適した集合居住の形式を創出することは可能であり、意欲ある建築家の格好のテーマとなりうる。近代技術を利用しながらも風土の味わいを残す「新しい集合形式による新しい居住文化」である。東日本大震災のあとに、建築家の伊東豊雄が提案した「みんなの家」はまだ理念的な段階であるが、そういった可能性を示す。 地球温暖化は、脱炭素社会という意味で文明の変質であり、異常気象という意味で風土の変質である。 これまでは、風土がつくってきた建築と文化を文明が変化させてきた。しかし地球温暖化は文明も風土も新しいものに変えようとしているのだ。日本の建築もまた他の文化も生まれ変わる時期にきているのではないか。また近代化とともに崩壊してきた「家族」という概念も、新しい時代に即したものとして再構築される時期ではないか。 国交省は「国土強靭化」とともに「コンパクトシティ」という概念を適用しようとしている。大まかな考え方は悪くないが、国交省がやるとどうしても土木的になって、税金を投じての堤防の嵩上げや、居住地の制限(高台化)という方向に進みがちだ。 むしろ日本人の住まい方の意識を変え、居住文化を変えることである。 木造の良さは内装で残すことができるし、隈研吾という建築家はそれを外装で実現している。庭つきの良さは共同庭園あるいはドイツ式の「クラインガルテン」という市民菜園のようなものでも補える。 どうしても自然居住という人は、「ポツンと一軒家」(テレビ朝日系)というバラエティー番組のように、アウトドア的な野生の覚悟をもって住むことになるが、それもひとつの生き方だろう。 文化は変化するものだ。いや変化しなければならないものだ。温暖化という新しい風土には新しい文化が求められる。