アフターコロナの日本は「ポスト・アメリカ追随時代」へ
緊急事態宣言が解除されてから3週間以上が経過しました。新型コロナウイルスは、働き方などについて人々の価値観を否応なしに変化させました。しかし、建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、「欧米ばかり見る日本人の世界認識は変わっていない」と考えます。若山氏が独自の「文化力学」的な視点から論じます。
国民性を自慢すべきではない
麻生太郎財務大臣が、日本の新型コロナウイルスによる死者が欧米諸国と比べ少ないことについて、「おたくとは民度のレベルが違う、と言ってやると黙る」などと威張ってみせたことが話題になった。たしかに海外のマスコミは日本の対応の曖昧さを手厳しく批判していたので「どうだ、見たことか」と胸を張りたい気持ちも分からないではない。しかしこうした発言は、相手の国民をバカにしたとも取れ、元総理でかつ現職の副総理兼財務大臣という、日本国を代表すべき人物に相応しいとは思えない。 振り返ってみれば、緊急事態宣言が解除されるかされないかの時期から、マスコミにおける日本国民の一致協力精神を称賛する発言が目立った。何かと失言の多い大臣よりも、むしろこちらの方が問題は大きいかもしれない。「欧米に比べて日本は人口当たりの感染者数も死者数も少ない…だから日本人の民度は高く日本文化は優れている」というもので、政府の対策は評価しないが国民の質の高さは評価するという文脈であるが、この論理には欠陥がある。 「欧米に比べて」とすれば、そのまま日本の特質に結びつくという前提が問題だ。すぐ近くの韓国や台湾はどうだろう。また東南アジア諸国はどうだろう。ニュージーランドやオーストラリアはどうだろう。日本と同様、あるいはそれ以上に感染を抑え込んでいるではないか。発生源の中国でさえ、人口当たりで考えればかなり抑え込んでいる。そう考えれば、その原因は、東アジア、東南アジア、オセアニアに共通する条件、遺伝的特質、生活習慣、BCGや交差免疫など、山中伸弥教授が指摘したような、ハッキリとは断定できない何か、つまり「ファクターX」があるという視点の方が正しい。隣国が「K防疫」を自慢することに対抗して「日本モデル」を自慢しようとするような態度は慎むべきである。