「自粛のファシズム」と「修正グローバリズム」 新型コロナウイルス論議の反省と展望
4月7日に7都府県で出された後、全国に広がった緊急事態宣言が5月25日 、すべての都道府県で解除されました。しかし、以前の生活にすんなりと戻れるわけではありません。むしろ、世界はこれを機に大きく変わるかもしれません。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、「問題点を反省し、今後の展望をひらく必要性を感じる」といいます。日本で本格的に新型コロナウイルスが話題になり始めた2月からのおよそ3カ月間を若山氏が独自の視点で振り返りつつ、これから先の世界の姿について論じます。
「大したことない」から「大変だ」への変化
少し落ち着いてきた。ここで主としてテレビ番組における、新型コロナウイルスに関するこれまでの議論を整理して、その問題点を反省し、今後の展望をひらく必要性を感じる。結果がよければ原因を追究しないというのでは、また同じ危機に陥るだろう。 2月から3月初旬までの初期の段階では、多くの論者=コメンテーターから「さほど恐れることはない」「むしろ感染が疑われる人(中国からの帰国者など)に対する偏見がよくない」といった発言が聞かれた。専門家の中にも「恐れすぎるな」という意味を込めて「正しく恐れるべきだ」という人が結構いた。検査と隔離の強制にも、人権上の抵抗が感じられた。 しかし3月中旬以後、欧米での感染拡大が伝えられてから、旗色が一挙に変わった。イタリアから欧州全土、そしてアメリカで、あっというまに感染が広がり死者が急増するのを知って、同じコメンテーターが「大変だ」といいはじめ、政府の対応が遅くて生ぬるいと批判するようになった。ワイドショーばかりでなく、本格的な報道番組でも見られたことだ。 事実と情報が変化するのだから仕方ないともいえる。しかし専門家が自分の意見を主張しそれが結果的に間違っていたとしても理解できるが、専門家でない者が、よく分からない事象を、しかも国民の命にかかわることを、その場の空気で発言するのは無責任というべきだろう。こういった言論が、習近平主席の来日や東京オリンピックなどとともに、政府の水際対策が後手にまわる要因となったとすれば問題である。