ミャンマーで取材中拘束「男2人に銃口を向けられた」ジャーナリストの久保田さん会見(全文1)
通行人を装い、20~30メートル後ろから撮影
私は通行人を装い、20~30メートル後ろから撮影をしていました。デモ隊が駆けて逃げていくのを見届けたあと、通行人のふりをして歩いて帰ろうとしたところ、後ろから車が近づいてきて、近づいてきたと気付いたときには、銃を持った男2人によって銃口を向けられていました。その場で私は膝をついて、手を上げて、そのまま手錠を付けられて車に入れられました。そのまま警察署に連れて行かれ、取り調べを受けました。そのときに何度も撮影を、顔写真、横顔などを何度も撮られ続けました。その流れの中で、警察署の表に出るように言われ、このような横断幕を持たされ、その写真を撮られました。この写真がのちに、私がデモに参加し、先導したというような証拠として使われました。そのことはのちに知りました。 取り調べは7月30日と31日の2日間にわたって行われました。初日はエアコンの効いた所長室で寝泊まりをさせられ、好待遇のような待遇を受けていたと思いました。翌日、31日に取り調べの中で、彼らは私の名前をFacebookで検索しました。私がかつて制作したロヒンギャに関する映像を発見しました。ミャンマー語のオンライメディアKhit Thit Mediaにて掲載されていた『Empathy Trip』という短編ドキュメンタリーです。映像を発見してからは、ある警察官は私への敵意を明らかにするようになりました。私のことを小突きながら、おまえの映像を見るとむしずが走るといったような内容を、身ぶり手ぶりを交えながら、嫌悪感を伝えてきました。どこから金をもらって作ったんだといったことも、しつこく聞かれました。また、同じとき、これからおまえが行くのは地獄みたいな所だと告げられたのを覚えています。臭くて汚く、人がたくさんいると言われました。
2m×5mほどの空間に20人以上が生活
その時点で取り調べは終わったもようで、その後、警察署内の留置所に連れて行かれました。その日の夜、つまり7月31日の夜からインセイン刑務所に連れて行かれる8月4日までの間は、留置所に入れられていました。実際に留置所の環境はひどく、地獄のようだと言った意味が分かりました。2メートル掛ける5メートル四方ほどの空間にトイレがあるだけの部屋で20人以上が生活していました。日の光も入らない場所で、壁や天井にほこりが何層にもわたって、びっしりとこびりついていました。 また、取り調べ中から留置所にいる間は、出された食事には私は手を付けませんでした。大使館と直接、連絡を取らない限り食べないというふうに警察官には告げていました。この際、私がミャンマー料理は口に合わないので食事をしないようだという旨の報道がされていたということを解放後に私は知りましたが、事実ではありません。実際には事実上のハンガーストライキをしていました。 8月4日にインセイン刑務所に連れて行かれました。刑務所に着いてからは拘束が長期化することが予測されたので、5日の朝から食事を始めました。インセイン刑務所では外国人用の独房に入れられていました。同じブロックにはほかの10人の囚人がいて、彼らは政治犯ではありませんでしたが、私に非常に親切にしてくれていました。独房での暮らしは生活環境という意味では、ほかの多くのミャンマー人の囚人たちと比べるとはるかにいい状況だと知らされました。その分、セキュリティーが厳重で、ほかの囚人との接触はほとんどできませんでした。そんな中でも限られたタイミングでほかの政治犯が話し掛けてくるタイミングは幾つかあり、その際に、日本に帰ってもミャンマーのことは伝え続けてくれと何度も言われました。 軍事法廷における裁判は10月5日に行われました。ほかの十数人の囚人と一緒にトラックに乗せられ、裁判所に連れて行かれました。弁護士を呼びたいと言いましたが、軍事法廷に弁護士は呼べないと言われました。軍人が3人、目の前に立っている薄暗い部屋に連れて行かれ、通訳が1人いました。真ん中にいる軍人が大きな声で叫ぶように何かを読み上げていました。