慕われる監督と嫌われる監督 森保、落合から考える指導者の資質とは?
「いい人」という監督
一方の森保一監督は、選手一人一人への細かい気配りで知られ、試合が終わっても選手を全部見送って最後に帰るといわれるほどだ。 選手時代には日本代表としてドーハの悲劇を体験したが、指導者としての評価の方が高い。コーチとしての実績もあり、監督としては、Jリーグにおいてサンフレッチェ広島の監督を5年半ほど務め3度のリーグ優勝に導くという素晴らしい成果をあげた。 そしてその評判はとにかく「いい人」である。 岡田武史元日本代表監督も、森保を「ポイチ」と呼び、その人柄の良さとそれにともなう指導力を一貫して支持している。当の森保は、自分を「監督係」と呼んで、決して偉ぶらない。 今回のカタールW杯の日本チームは、選手もコーチも「素晴らしい団結」という感想で一致しているが、そのまとまりの源泉が、森保監督の人間性にあることはまちがいない。まさに「慕われる監督」である。 落合ファンの僕としては、ひとつのチームの監督として、あるいは指導者として「慕われるのと嫌われるのと、どちらがいいのだろう」と考えこまざるをえなかったのだ。
相違点と共通点
まず、野球とサッカーと、ゲームとしての相違点と共通点に着目しよう。戦術的には違いが目につく。 野球は、試合中の戦術に監督やコーチが関与する幅が広い。打者に対しては強打かバントかスクイズかヒットエンドランか犠牲フライかの指示、投手に対しては敬遠か勝負かその他捕手を通じての指示、守備に関してはシフト(守備位置)の変更、ランナーには走塁と盗塁の指示など、そしてもちろん選手の登用と交代がある。選手には、監督とコーチが指示する戦術を確実に実行することが求められる。 これに対してサッカーは、選手の登用と交代とシステム(フォーメーション)の変更以外は、試合中に監督が指示できる範囲が限定的だ。選手は自己の技術を発揮すること以外にチーム全体の戦術を頭に入れてプレーする必要がある。 野球は基本的に個人プレーの集積であり、打者は打率やホームランの数で、投手は防御率や勝ち星の数で評価される。しかしサッカーは基本的にチームプレーの分担であり、得点数やアシスト数は評価の目安にすぎない。落合が、チームやファンのことより個人の能力を発揮することにこだわるのも、森保が、チームの結束にこだわるのもそのためである。 しかし戦略的には、共通するところが多い。 野球もサッカーも、個人の能力が基本となって最終的にはチームとしての勝利を目的とする。したがって選手の育成と登用は大きな戦略的課題である。また基本的な戦略戦術の工夫と組み立て、そのための訓練、そして何よりも選手のモチベーションを高めることが求められる。 僕が監督としての落合に感じる長所は、まず選手を見る目のたしかさである。周囲の評判やこれまでの数字に頼るのではなく、自分の目を信じて徹底的に観察し分析する。さらに戦略と戦術に独特の創意と工夫がある。選手の能力を最大限発揮させる指導法と言葉をもっている。熟慮の上に決断したことはその信念を貫く。こういったことは、人柄が良いとされる森保監督にも、かなり共通するのではないか。そして落合は野球を、森保はサッカーを限りなく愛している。 およそ指導者というものはこうであってほしい。ほとんどの指導者は、落合の冷徹さにも、森保の人の良さにも、なりきれないだろう。それほどこの二人は対照的であり、逆にその並外れたところが共通しているのである。いいかえれば、慕われればいいというものでも、嫌われればいいというものでもなく、他人の評価の奥にある資質こそが問題なのだ。