私は昭和のアイドルでよかったのかも――早見優が50代を迎えて振り返る、超多忙だった10代の日々 #昭和98年
大学進学、合コンに憧れた
当時、売れっ子アイドルは3カ月に1枚、シングルレコードをリリースしていた。忙しすぎて、当時の記憶は断片的だ。 「ここに(松本)伊代ちゃんとか(堀)ちえみちゃんがいると、記憶を補い合えるんですけど(笑)。もう、忙しすぎて、寝る時間もほとんどありませんでした。『夏色のナンシー』がチャートインしてバタバタしている時には、もう次の『渚のライオン』のプロモーションで地方へ。その間にアルバムも録音しなきゃいけない。2時、3時まで仕事して、朝5時に始発でどこかへ行って、とか。もう電車や車の中でしか寝られなかったんですよね。一度倒れて入院した先で、久しぶりに8時間寝たな……と考えたことをおぼえています」 現在、大卒のアイドルは珍しくないが、当時は10代前半から芸能界に入り、そのまま活動を続けるというパターンが多かった。そんななか早見は、上智大学外国語学部比較文化学科に進学する。
「高校を卒業する頃、ちょっと疲れてしまって。年齢的にも、アイドルは続けていけないだろうし、今後就職活動をするにあたって、いろいろと学び直しておこうと思ったのがきっかけです。でも、大原麗子さんと連続ドラマのお仕事もあったりして、意外と順調だったんですよね。歌も歌いながら、仕事を続けていました。だから、大学3年生の時かな。周りの友達がみんな就活をして大変そうだった時、言われたんです。『優ちゃんはいいよね、仕事があるから』って。その時に、あ、そうか、この仕事は一生続けていけるんだ、と思って」 合コンに誘われたこともある。 「10代、青春の時期はずっと仕事だったので、合コンに行くのは憧れでした。楽しみで、スケジュールにも書いておいたんですけど、仕事が入ってしまって。結局、合コン体験はできずでした(笑)」
40歳を過ぎて図太くなった
20歳を過ぎた頃、事務所から「もうレコードが売れない年齢になるから、路線を変えてお芝居を中心にやっていこう」と言われ、早見は大きなショックを受けた。 「『えっ、もう大好きな歌を歌っちゃいけないの?』って、すごく落ち込みました。ジャズシンガーだった父に相談したら、『レコードが売れるばかりが歌手じゃないよ。あなたの歌を聴きたいという人が一人でもいたら、歌い続けるべきだ』と励ましてくれたんです。母も『お父さんにジャズを習ってきなさい』と背中を押してくれて、そこからですね。ちょうどその時に、ミュージカルのお仕事もいただいて、こういう形でも歌は続けていけるんだ、と自分でも目からうろこでした。そうそう、当時流行していた女子プロレスに転向しませんかというオファーもありましたね(笑)」 自分には何ができるのか。この先どうなっていくのか。いつもはつらつとして、悩みとは無縁に見える早見だが、悩み多き20代を過ごしたと振り返る。 「こう見えて、私はとっても人見知りだったんですよ。なんだかずっと悩んで、グジュグジュして。……クヨクヨしなくなったのは、たぶん、子育てをしてから。子どもに、自分の落ち込む姿を見せるのが嫌だったんですね。すぐに解決策を見つけようって、母親になってすごく強くなったと思います。40歳を過ぎると、いろんな意味で図太くもなります。老け込むのは嫌ですけど、年を重ねることで、精神的な安定を見つけられるのはいいことですよね」