私は昭和のアイドルでよかったのかも――早見優が50代を迎えて振り返る、超多忙だった10代の日々 #昭和98年
事務所の社長の家でリクエストはがきを書いた
3歳でグアムへ。7歳からはハワイで育った。14歳の時、単身日本へ。 「不安はなかったんですよね。やっぱり若いから、ワクワク感のほうが強かったんです。『え?歌?』『何、今日はコマーシャルのオーディション?』みたいな。もう毎日が楽しくて」 山口百恵の大ファンだったので、日本での芸能界デビューが嬉しくてたまらなかった。 「私がハワイでスカウトされたのが1980年の8月の終わりか9月で、もう10月の終わりには日本に行き、初めは叔母の家にお世話になりました。すぐに『ヤンヤン歌うスタジオ』という番組のなかの、近藤真彦さん主演の5分間の青春ドラマに転校生役として出演して。あれよあれよといううちにデビューとなって、もっと歌のレッスンもしっかりしておきたかったんですけど」
当時、デビュー前にレコード会社の重役宅などで修業したアイドルも多かったが、早見はどうだったのだろう。 「私は2週間だけ社長宅にお世話になりましたね。『松田聖子さんもここにいたんだよ』と言われて。『ザ・ベストテン』を見て、終わったら『みんなで応援しよう!』ってリクエストはがきをせっせと書きました。あの頃は、はがきがとても大事だったんですよね。あとはアイスクリームを食べて、すごく太った記憶があります(笑)」 『明星』『平凡』『近代映画』……当時、アイドルのグラビアが充実した芸能雑誌は大人気だった。 「各雑誌、担当の方が決まっていて、『何がしたい?』って聞いてくださるんです。『原宿でクレープ食べたい』と言ったら、『OK!』。<早見優、休日はクレープを食べる>とか、そういう感じのコーナーを作ってくれて。しばらくすると、すごく撮影時間が増えて、『どうして?』って聞いたら、『カラーグラビアだから。もうモノクロ写真じゃないよ』と。やっぱり曲が売れると、雑誌の中でのポジションも変わるんだ、って子どもながらに驚きました」 『夏色のナンシー』のヒットで、早見の人気は爆発。超多忙アイドル時代が始まった。