松坂大輔は涙の引退会見で何を語ったか…「自分を褒めてあげたい”あきらめの悪さ”の原点は甲子園でのPL学園戦」
西武の松坂大輔(41)が19日、埼玉県所沢の球団事務所でユニホーム姿で引退会見を行った。家族の話になった際、涙があふれて答えにつまるシーンもあったが、笑顔も交えながら約1時間にわたって引退の決断に至った経緯、栄光と挫折の23年間の日米でのプロ生活を振り返り「最後は心が折れて批判の声を跳ね返す力がなくなった」「あきらめの悪さを褒めてあげたい。甲子園でのPL学園との試合がその原点」「松坂世代という言葉は好きではなかったがみんながいたからトップを走ってこれた」などと語った。松坂は「こだわりがある」背番号18をつけて同日の日ハム戦に先発。打者一人だけと勝負する引退試合を行う。 以下は、引退会見の一問一答。
「右打者の頭に抜けたたった1球で投げることが怖くなった」
――今の気持ちを? 「選手は誰しもが長くプレーしたいと思い、こういう日がなるべく来ないことを願っていると思う。今日の日が来てほしかったような、来てほしくなかったような、そんな思いがあった。現時点では、まだすっきりしていない。この後(引退試合で)投げることになっているので、そこで気持ちがすっきりするのかなと」 ――(引退の日が)来てほしいようなと言う思いとは? 「今の体の状態のこともある。(7月に)引退発表があって球団には、すぐに(引退)会見の準備をしてもらう予定だったが、僕自身が発表はしたものの、なかなか(引退を)受け入れられなかった。発表したにもかかわらず気持ちが揺れ動いていた。ちょっと待って下さいと言って、だいぶ(時間が)経った。発表をしてから、この何か月間、やれそうだなと思った日は一度もなかった」 ――引退決断に至る経緯は? 「昨年の春先から右腕にしびれが出るようになったが、その中でもなんとか投げることができた。だが、コロナ禍の中で、緊急事態宣言もあり、トレーニングも治療もままならない中で症状が悪化した。手術は受けたくなかったが、ほぼ毎日、首の痛みとしびれで眠れなくなり、精神的にまいってしまったこともあり(昨年7月に頸椎の)手術を決断した。これまで時間をかけてリハビリをしてきたが、症状は改善しなかった。(今春の高知)キャンプ以降、バッティングピッチャーをやって次はファームで投げられそうだというところまできたが、その話をした矢先の4月の終わりくらいのブルペンの投球練習の中で、なんの前ぶれもなく右バッターの頭の方にボールが抜けた。ちょっと抜けたというレベルではなく、とんでもない抜け方をした。(ボールが)抜けそうだと思うときには、指先の感覚でひっかけたりするのだが、それができないくらいの感覚の無さで、そのたった1球でボールを投げることが怖くなった。そんな経験は一度もなかったので自分の中でのショックが大きく、松井(2軍)監督に相談して、ちょっと時間を下さいと、お願いをした。時間をもらったが、腕のしびれ、麻痺の症状が改善しなかったので、もう投げるのは無理だな、辞めなきゃいけない、と自分に言い聞かせた」 ――いつ最終決断を? 「(7月に)球団に(引退を)報告する1週間くらい前。5月頭からの2か月間、考えて悩んで、治療を受けにいって、なんとか投げられないかと思ったが、ほぼ変わらなかった。時間はもうないなと思った」 ――ご家族に相談は? 「難しいかもしれないなと家族には話していた…(涙ぐみ長い時間、言葉につまる)…だから会見をしたくなかったんですよね…(長い沈黙)」 ――家族への思いは? 「家族も体の状態をわかっていた。実際に辞めるよと言う前に、もうそろそろ辞めるという話をしたときに(子供たちは)喜んでいた。逢う時間が取れるから嬉しいと言っていた。でも、実際、辞めると報告したときには、みんな泣いていた。“やったあ、お疲れさま“と言われると思っていたが。僕にはわからない感情が、妻や子供たちにもあったのかもしれない。改めて感謝の気持ちと申し訳なかったという気持ちがあった」 ――申し訳ないとは? 「あまり家族のことは言いたくないが…(涙で言葉がつまる)…妻とは批判の声だったり、叩かれることもたくさんあると思うけど、ちゃんと守っていくからと言って結婚してもらったけれど、それができなくてほんとに申し訳なかった。妻も関係ないところで叩かれて大変だったと思う。迷惑をかけた。家族なりに我慢というかストレスもあったと思う。その中でここまでサポートしてもらったことに、ありがとうございましたと、改めて言いたい」