松坂大輔は涙の引退会見で何を語ったか…「自分を褒めてあげたい”あきらめの悪さ”の原点は甲子園でのPL学園戦」
――最後に納得のいくボールを投げられたのは? 「(レッドソックス時代の)2008年くらい。今でも忘れられないのは、2008年の5、6月のチーム(レッドソックス)のオークランド遠征中。その前の試合に投げて、登板間の投球練習のためにブルペンへ向かう途中で足を滑らせて咄嗟にポールのようなものをつかんだ。その時に右肩を痛めてしまった。そのシーズンは大丈夫だったが、オフにいつもの肩の状態じゃないと思った。そこからは肩の状態を維持するのに必死。(投球)フォームが大きく変わり始めたのが2009年頃。痛くない投げ方、痛みが出ても投げられる投げ方を探し始めた。その頃には自分が追い求めるボールは投げられてなかった。そこからは、その時、その時の最善策を見つける作業ばかりをしていた」 ――マウンドに上がる時に心掛けてきたことは? 「23年間、あまり自分の状態がよくなくて、投げたくないな、できれば代わってもらいたいなと思う時期もあったが、最後は逃げない、立ち向かう、どんな状況もすべて受け入れる、自分に不利な状況も跳ね返してやると…試合のマウンドに立つその瞬間には、必ずその気持ちを持って立つようにしていた」 ――大舞台で強かった。子供たちに伝えるものは? 「国際大会とか厳しい状況もあったが、このマウンドに立てる自分が格好いいと思うようにしていた。毎回勝てたわけじゃないし、痛い思いをしたこともあるが」 ――松坂世代と呼ばれた。 「いい仲間に恵まれた世代だった。みんな仲がよく言葉に出さなくてもわかりあえることがあった。(再び言葉につまる…)自分は松坂世代と言われることはあまり好きではなかった。でも僕の周りの同世代のみんなが、それを嫌がらなかったおかげで…ついてきてくれたというのはおこがましいかもしれないが、そんなみんながいたから先頭を走ってくることができた。ありがたかったと思う。同時に自分の名前がつく以上、その世代のトップでなくてはならないと思ってやってきた。それ(松坂世代のプライド)があったから最後まであきらめずにやれた。(松坂世代)最後の1人になった毅(ソフトバンク和田)には、僕の前に辞めていった選手たちが、僕らに託していたようにまだまだ投げたかった僕の分も毅には投げ続けて欲しい。できるだけ長くやって欲しい。同世代の仲間にも感謝している」 ――背番号18へのこだわりは? 「小さい頃にプロ野球を見始めて、ほぼジャイアンツ戦しかやっていなかったので、桑田(真澄)さんの背番号18がもの凄く恰好よく見えた。当時はエースナンバーだと知らなかったが、最初に受けた衝撃がそのまま残っていた。プロに入ってピッチャーをやるなら18をつけたいとやっていた。何かと18という数字にはこだわってきた。周りにいい加減にしろと言われるくらいなんにでも18をつけたがる自分がいた。最後にこうやって18をつけさせてくれた球団に感謝している」 ――通算170勝、日本一に世界一も手にした。やり残したことは? 「ライオンズに入団したときに東尾(当時の監督)さんに(東尾さんが達成した通算)200勝のボールをいただいたので自分自身が200勝してお返ししたかった。一番先に(そのことを)思う。200勝のボールは今でもちゃんと持っている」 ――今の自分にもう一人の自分が声をかけるなら? 「もう十分やったじゃんと。長い間、お疲れさまと」