東京に9万枚あった木製「仁丹看板」。震災・戦災で失われたはずが、なぜか根津須賀町で発見されて…<旧町名>でたどる文京区の歴史
◆大塚窪町、第六天町 <大塚窪町> 平成14年3月夜ふと入った古ビル1階のパン屋。なぜかお店のおばあさんにパン数点を無償でいただく。 これが東京での最初の心温まる思い出です。 しかしその古ビルがまさか同潤会大塚女子アパートだったとは。そして、そのパン屋が実は三角サンドイッチ発祥の地だったとは。 いただいたパンはもちろんバターロール。 <第六天町> おはようございます。今日の建もの探訪は、268年そして15代つづいた「家」。 ご家族は元征夷大将軍のご主人、奥さん、奥さん、奥さんそして21人の子供たち。 さて、どんな空間が待っているんでしょうか。まずは住まいのある町から拝見します。 小日向(こひなた)台地と小石川台地に跨るこの町は第六天(だいろくてん)町、現在の文京区春日そして小日向です。 何と言っても神田上水との高低差、いいですねぇ。さっそく住まいへ。失礼します。 新坂に接した3000坪に建つ1000坪の日本家屋の面影など感じさせない国際仏教学大学院大学。文字通りありがたい。 そして何と言っても敷地横を通る丸ノ内線。 地上の地下鉄、これがまた素敵なんですけど、敷地横の鉄道開通を嫌ってこのお宅に転居した経緯とのコントラスト、味わいがありますね。わかりました。 徳川さんのお宅跡いかがでしたか。ご主人が生きた激動の時代に思いを馳せる、そんな空間でした。 次回は徳川家から100m先の松平。かつての家臣・容保(かたもり)が暮らした家です。
◆駒込追分町、本郷區根津須賀町 <駒込追分町> 追分(おいわけ)とは道が2つに分かれる場所。そして私が初めて見た旧町名も「追分」、文京区駒込追分町です。 時は平成14年春。新聞奨学生を1ヶ月で辞めた私は、父に連れられ帰郷の啄木ルートを回避し文京区内で「**様方」なる住所を得ます。所謂間借りです。 狭い肩身に荒む心。上京即挫折で当てにした新聞奨学金も失い仕送りもない。安価な夜学とはいえ目下の学費と生活費に困り、選択肢は労働or餓死の2択。 社会経験が新聞配達のみの不安とちらつく餓死を飲み込み、配達物を新聞から郵便に変えることで無事生きることに成功しました。 そればかりか配達先の表札に「駒込追分町」という現町名とは異なる何かに遭遇します。これが私と旧町名との最初の出会いです。 もし選択を誤っていたら、旧町名も知らずいまも餓死しつづけていたでしょう。 追分とは分岐点。江戸町人にとって中山道と岩槻(いわつき)街道に分かれる旅の分岐点だったように、駒込追分町は私にとっても分岐点、まさに人生の「追分」です。 <本郷區根津須賀町> 京都市内でひんぱんに見かける仁丹(じんたん)広告付きの町名看板。 京都の街並みに融合した経年劣化具合と京都特有の町名バリエーションも相まって、この「仁丹看板」は京都の隠れた名物です。 仁丹看板誕生の背景には明治末期の野外広告への法規制があります。 森下仁丹創業者は、広告規制の例外規定「公益ノ為メニスルモノ」に着目し、町名を付すことで位置情報を示す「公益性」を担保した屋外広告を生み出します。 大正元年ごろから木製の広告付き町名看板が京都市内に設置され、これが仁丹看板の始まりです。 なお、近畿大学井出文紀准教授の論文によると、戦前は東京に9万枚もの木製仁丹看板が設置されていたそうです。残念ながら、震災と戦災で現存は1枚もないとされています。 そして、なぜ根津須賀(ねづすが)町の貴重な紙面を割いて京都の話を繰り広げているのか。 そう、根津須賀町で木製の仁丹看板が発見されたのです。ただし真偽は不明。 正式な仁丹看板か否か、森下仁丹の判断を待ちたいと思います(その後、正式に仁丹看板認定されたようです。よかったね!)。