東京に9万枚あった木製「仁丹看板」。震災・戦災で失われたはずが、なぜか根津須賀町で発見されて…<旧町名>でたどる文京区の歴史
◆竹早町 <竹早町> 竹早町で「分離」といえば竹早高校と東京学芸大付属竹早中の校舎問題があります。 両校はもとは同じ府立で校長も校舎も共用していたものの、都制により都立と国立に分かれ校長も違うまったく別の学校に。 その際に敷地も校舎も国有化されたことで以後20年間都立が国立に校舎を間借りする歪な関係となります。 部活や行事に制約が掛かる屈辱の学校生活。 「独立した校舎を!」 昭和40年に生徒会長が校舎問題解決を公約に掲げ、都への請願やマスコミへの提起がやがて世論を動かします。 昭和42年に両校間の校舎分離独立協定の締結、そして昭和45年遂に竹早高校は校舎独立を果たしました。 校舎も校門も分離した両校は現在、校門が隣り合う不思議な光景を残しています。 ※本稿は、『旧町名さがしてみました in東京』(二見書房)の一部を再編集したものです。
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