東京に9万枚あった木製「仁丹看板」。震災・戦災で失われたはずが、なぜか根津須賀町で発見されて…<旧町名>でたどる文京区の歴史
「現在では使われなくなった地名=『旧町名』は、古い家屋の表札やビルなど様々なものの中に発見することができる」と語るのは、16年以上、全国の旧町名の名残りを探し、その記録をブログなどで発信している102so(じゅうにそう)さん。ご著書の『旧町名さがしてみました in東京』より、今回は東京・文京区の旧町名にまつわるエピソードを紹介していただきました。102soさんいわく、「文京区は、本郷區と小石川區が合併して昭和22年に誕生した」そうで――。 【写真】徳川慶喜終焉の地看板。大正2年まで生きた慶喜は、年代的に近所の石川啄木や永井荷風とすれ違っていた可能性があるはず * * * * * * * ◆音羽町、東青柳町、西青柳町 <音羽町> 平成15年まで二見書房があったことでお馴染みの音羽ですが、平成14年に私が新聞配達していたことでもお馴染みの音羽(おとわ)です。 旧町名は音羽町で、護国寺を起点に9丁目まで存在していたなど、朝2時起きでカブに跨る当時の私には知る由もありませんでした。 20年後そこの出版社から本出すよ、と当時の私に伝えたい。 <東青柳町、西青柳町> 音羽町1丁目の西側が青柳連邦共和国、通称「西青柳」。資本主義市場経済はともかく講談社が設置した公園があります。 一方、東側は青柳民主共和国、通称「東青柳」。秘密警察や西青柳への亡命が相次ぐこともなく閑静な街並みが残ります。 音羽通りの直線さが東西青柳を分断する壁に見えただけのフィクションです。
◆久堅町、真砂町 <久堅町> 久堅(ひさかた)町は、はたらけどはたらけど生活(くらし)が楽にならないことでお馴染みの石川啄木の終焉の地です。 いまはマンションがあるこの場所で、亡くなるまでの8ヶ月間暮らしていました。 そもそも石川啄木はぢつと手を見る人程度の認識でしたので今回その生涯を調べたら、偉大なるクズ野郎でした(個人の感想です)。 妻を顧みず友人に金をたかり借金も払わずのよく言えば破天荒。もちろん、才能や作品に罪はありません。 ただ、最初の上京を4ヶ月で挫折し父に迎えられ故郷に帰った境遇は共感できます。特に父に迎えられた点が。 私も大学進学時に利用した新聞奨学生という現代の蟹工船を1ヶ月で辞めた際に田舎から父が迎えに来ました。 文京区の販売所に来た父は所長に詫びた様ですがどのようなやりとりがあったか、朝2時起きで6時半まで朝刊配達し集金と拡張後昼2時から夕刊配達の日々に「いや大学いつ行くねん!」と突っ込むので精一杯な当時の私には知る由もありませんが、とにかく親は偉大です。 <真砂町> 文京シビックセンター横の春日町交差点。 東京ドームや講道館に行く人なら上空に浮かぶ「真砂アパート」の素敵なタイル文字を目にした経験があるはず。 昭和40年に消滅した旧町名の真砂(まさご)町を用いるこの都営住宅、外観的にも建設年は町名消滅前の相当古いに違いない。 と思いきや昭和42年でした。何と微妙に消滅後。