木村敬一と富田宇宙のパラ五輪100mバタ金銀メダル独占を生んだ感動の友情とライバル物語とは?
滋賀県栗東市で生まれ育った木村は、もの心がつく前の2歳で先天性疾患による網膜剥離で全盲になった。周囲の光景が見えた記憶がない少年を変えたのは、小学校4年生のときに母親の正美さんに連れていってもらったスイミングスクールだった。 懸命に努力を積み重ねれば、光や色を感じられない自分でも上達できる。夢中になれるものを見つられけた喜びは生きていく上での自信へ、そして2004年のアテネパラリンピックの代表選手たちと一緒に練習できた機会を経て夢へと変わった。 4年後の2008年の北京大会で、初めてパラリンピックの舞台に立った。旗手を務めた2012年のロンドン大会では100m平泳ぎで銀、100mバタフライで銅を獲得。大会後にはリオ大会の金メダルを目標に掲げて、母校日大の文理学部教授で競泳元日本代表の野口智博氏に師事。週10回のパーソナルトレーニングを自らに課した。 過酷な筋トレと一日5度の食事で肉体を改造し、健常者と同じ練習メニューに耐え抜いたリオ大会の結果は、銀と銅のメダルがそれぞれ2個だった。特にターゲットにすえていた100mバタフライは0秒19差の2位。無念のあまりに号泣した。 そのリオ大会前に練習パートナーを務めたのが富田だった。高校2年のときに黒板の文字が見えにくくなり、やがては網膜の異常で視野が狭まっていく進行性の難病、網膜色素変性症を患っていると判明。大好きだった競泳も高校で引退した。 自らが持つさまざまな可能性を探りながら、富田は大学卒業後に障害者水泳クラブの門を叩いた。水中を進んでいた記憶がはっきりと刻まれている富田は、幼少期から全盲だった木村のパートナーを務めながら、いつしか畏敬の念を抱くようになった。 そして、リオ大会翌年の2017年から木村と同じ全盲クラスに移った。どんどん成長を続けるライバルの誕生は、リオ大会後に燃え尽きた感覚に陥っていた木村を刺激したのだろう。心機一転、東京大会での金メダル獲得を目標にすえた木村は2018年春に、アメリカ東海岸の港町、メリーランド州ボルティモアに練習拠点を移した。 ライバルのつてを頼り、そのコーチに師事した。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で練習拠点が閉鎖され、昨春に帰国を余儀なくされた。木村の言う「いろいろなことがあった」のひとつだが、昨夏には都内にある低酸素施設が整ったプールで富田と合同合宿を行うなど、1年延期になった東京大会へ向けて互いに“共闘”してきた。