「合鴨」の名付け親! 命を育て、生食でもいただける…極上の大阪ブランド「河内鴨」
秀吉の時代から大阪人は鴨肉を食べていた
大阪と鴨の関わりは古い。鴨が好物だった豊臣秀吉が、近江・長浜から大阪に居を移した際、大阪の北河内や中河内の湿地帯での鴨の生産を奨励したそうだ。一説によると、平安時代から養鶩が行われていたとも言われている。 北河内にあたる現在の城東区茨田(まった)付近は、池や沼が沢山あり、レンコン栽培が盛んだったところだ。その池や沼を利用して鶩を飼育していた。江戸時代には名産品として全国に知られ、夏の天神祭の時には、土用の丑(うし)の鰻(うなぎ)と同じような感覚で鶩のすき焼きを食べるという風習があった。 昭和30年代には、大阪は合鴨の生産地として日本一を誇り、全国にも肉や卵を出荷。ツムラ本店がある中河内の松原界隈でも、昭和40年代初めまではツムラを含めて3社に孵化場があり、週に1万5千羽を孵化(ふか)させていたという。 「昔は鶏より合鴨の方が安くて手に入れやすかった。というのもね、鶏は飼育が難しくて死ぬ率が高くて、高級やったんです。ところが、昭和40年代にアメリカから抗生物質とブロイラーが入ってきて、鶏肉が量産できるようになって値段が下がり、合鴨と鶏の値段が逆転しました。同じ頃、このあたりも宅地化が進み、鳴き声や匂いが困ると言われ始めて、同業者が仕事を辞めるようになっていきました。同じ仕事をやっていた親戚の従兄弟は、家が臭いとイジメられて、小学校4年から学校へ行かんようになってしもた。勉強がようできるヤツやったから、家で勉強して高校・大学は、めっちゃええとこ行ったけどね。 うちの父親はめっちゃ怖い人やったから、20人ほどの同級生らに『お前ら、友達に対して臭いとか言うてどうすんねん!助けたるんがほんまの友達ちゃうんか』って言うてくれて、僕はイジメに遭うことなく助かったけど」(津村氏) そんな佳彦少年も、高校生になると家業を継ぐことを考え始めた。その際、孵化場だけではなく食肉販売にも事業を拡大しようと提案する。 「その頃にはもう、市場で売られている鳥肉は鶏がほとんどになっていて、合鴨のヒナを売りたくても買ってくれる会社はどんどん廃業していきました。でも、僕はいける、と思ったんです。というのも、その7~8年くらい前からアメリカやフランス、イギリスから輸入の鴨が入ってくるようになってね。それがめっちゃ美味しかったらあきらめようかと思っててんけど、大して美味しないねんな。なんや、これやったら大阪の鴨のほうが美味いやん。それやったら、生で食べられるような、めっちゃ美味しいのを作ったろうって」