「収入はすべて搾取、学ぶ機会も奪われて…」大女優・高峰秀子さんを苦しめた養母。それを救った最愛の夫
きらびやかな女優業の裏で、養母と親族に搾取されていた、昭和の大女優・高峰秀子さん(1924年生まれ享年86)。それを救った脚本家の松山善三さん(1925年生まれ享年91)の愛情物語を、養女として身近で見てきた文筆家の斎藤明美さんが一冊の本『ふたり~救われた女と救った男』にまとめました。ここでは、高峰さんを苦しめ続けた養母の壮絶なエピソード、驚きの最期などについて聞きました。 【写真】少女スター時代の高峰秀子さん
苦労人だった養母。最初は秀子をかわいがっていたが…
2024年は、日本映画史に残る偉大な女優、高峰秀子さんの生誕100年の年に当たります。一世を風靡した映画女優というと、華やかな印象をもつかもしれませんが、じつは養母から搾取される不幸な人生を歩んでいました。 ――高峰秀子さんは5歳のときに北海道・函館で実の母と死別後、叔母にあたる方が養母となって東京に連れて行ったのですよね。養母、養父はどんな方だったのでしょうか? 斎藤明美さん(以下、斎藤):養母・志げは父親(高峰の父方の祖父)が急に若い後妻をもらい、次々に子どもを産んだので、いつも赤ん坊を背中にくくりつけて子守をし、小学校にも行けなかったそうです。そのうえ、父親は後妻の子どもたちをかわいがり、自分はほったらかしにされたため、志げは成長するに従って心に不満やうっぷんをため込んでいたようです。 ――養母も学校に行けず、愛情に飢えた、苦労人だったのですね。 斎藤:だから家を出たいと強く思うようになり、20歳を過ぎた頃に、流れ者の活動弁士だった荻野という男について東京へ行くわけです。 ――活動弁士とは、無声映画時代、映画上映中に、画面の人物のセリフをしゃべり、話の筋を説明した職業の方のことですね。 斎藤:最初は荻野と内縁関係で、のちに籍を入れるのですが、彼はお世辞にも誠実な男とは言えず、めったに家に帰ってこない。だから子どもでもいればつなぎとめられると思って、秀子を欲しがったのではないか、これは高峰の意見ですが。 ――そうだったのですか。切ない事情ですね。それにしても、高峰さんの客観的で冷静な観察眼には、驚くばかりです。 斎藤:養母は数年後、荻野と離婚します。しかしこの荻野という養父は大きな役割を果たすのです。5歳の秀子をおんぶして松竹蒲田撮影所に知人を訪ねていったときに、たまたま映画『母』の子役オーディションをしていて、60人ほどの中から高峰が選ばれるのですから。 ――そうだったのですか! 60名の中から選ばれるとは、やはり当時から光るものがあったのでしょうね。映画『母』は、高峰さんの5歳のデビュー作ですね。 斎藤:養母は高峰が子役をしている頃は、出演料も安く生活が苦しかったので、人形の着物を縫ったり、同じアパートに住む学生のまかないなどの内職をしたり、ひとつしかない布団で秀子を抱いて寝るような人だったそうです。 ――そうだったのですか。最初は愛情をかけて、幼い高峰さんを健気に育てていらっしゃったのですね。