パラリンピックならではの醍醐味・感動・哲学 「物語同調性」と「共同幻想論」
8月24日に幕を開けた東京パラリンピック。まもなく13日間の大会が終了しますが、パラアスリートたちが熱戦を繰り広げる姿をテレビ観戦して、オリンピックとはまた違った形で心を動かされた人も多いのではないでしょうか。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏も「人生観が変わる機会」だったと振り返ります。パラリンピックの持つ力、そしてそこから考えた人間の本質について、若山氏が独自の視点で論じます。
人生観が変わる機会
パラリンピックを「観た」。もちろんテレビでだが、オリンピックと同じぐらい面白かった。そしてオリンピックとは異なる感動があった。 手と足のかなりの部分を失った人が驚くべきスピードで泳ぐ。車椅子のラグビーでもバスケットボールでも激しくぶつかりあう。ボッチャという競技は地味だがなかなか戦略的だ。視力を失った人が走るときは伴走者も必死である。パラリンピックにはパラリンピックならではの醍醐味がある。 これまで、障害のある人をじっくり見ることにはどこか抵抗があって、パラリンピックを何となく避けていたのだが、今回は東京大会でもあり、コロナ禍におけるオリンピック開催に批判的な意見とそれでもスポーツの力を認める記事を書いたので、今回は「あえてしっかり観る」ことにした。 そして今は、このような「人生観が変わる機会」があって良かったと思っている。パラアスリートたちも、心からそのパフォーマンスを観てもらいたいと考えているようだ。
「自己陶冶」と「自己超克」
障害の軽重によって細かくクラス分けされ、適切な競争となるように配慮されている。 それでも本当に公平なのかという疑問もあるが、その疑問はそもそも公平とは何かという問題に帰するだろう。どんな人間もそれなりの個人的な状況下に生きているのであり、完全なる公平など存在しない。そのそれぞれの条件において、適切なルールのもとに勝敗を競うことに意義があるのだ。そして同時にそのことは、勝利あるいはメダルの色が、目的ではなく単に目標に過ぎないことを示唆している。 もちろんアスリートたちは勝利に向かって闘うのであり、相手に勝つことが喜びなのであるが、真の目的は、それぞれの状況下において挑戦する意志と努力の継続であり、その継続の中で自己を形成することすなわち「自己陶冶(とうや)」である。また、障害のある人がその障害を超えて生きようとする姿には、ニーチェのいう「自己超克」を感じさせる崇高さがある。パラリンピックにはパラリンピックならではの感動がある。 障害とは差異であり、すべての人間がその差異を生きているのだ。