「生存率64%をくぐり抜けたいま、私の幸福度は40代よりはるかに上がっています」46歳で乳がんと子宮頸がんⅢCに同時にり患した52歳ラジオパーソナリティが腹の底から笑顔でそう答えるたった納得の理由
信じがたい医師からのひとこと。「これ以上私はここでは治療を受けられない」
ここでさらなる衝撃が。佳江さんが精いっぱい見せていたカラ元気が、医師には不真面目と映ったのでしょうか。低い口調で医師に「お子さんには伝えたんですか?」と聞かれました。 「当時娘たちは6年生と3年生でした。はい、もちろん言いました」 医師からは「何て言ったんですか?」と質問が。佳江さんは「お母さんはがんだけど、がんばって治すからねと言いました」と返答。すると、医師はなんと…… 「『そんな簡単なもんじゃないんですよ』と冷たく言い放ったんです。明らかに吐き捨てるような言い方で」 予期せぬ言葉に一瞬理解が追い付かず、次の瞬間には頭のてっぺんから全身がすっと冷たくなるようだったと佳江さんは振り返ります。一瞬呆然としたあと、すぐに我に返り、次の言葉を探しましましたが、言葉が出てきません。ひとつだけ心に浮かんだ言葉は「ここはムリ」。 「じゃあ先生、子どもに『ママは死ぬかもしれないかもしれないけど治療するからがんばるね』って言えばいいんですか。『お母さん大変だけど死ぬかもだけど』って……? ごめんなさい、今思い出してもまた泣いてしまいますが、私、この時にはじめて、がんを宣告されてから泣きました。ずっとずっと泣かないで、できるだけ他人事のように考えて生きてきたけれど、でも、泣きました」
行き場のない悲しみと怒りを受け止めてくれたのは家族だった
下に3人の弟さんたちを抱える佳江さんは、子どものころから家族に対しても皆のバランスを考え、自分の気持ちをいちど抑えてから語り始める姉でした。帰りの車の中でまず顔が浮かんだのはお母さまだったそう。 「母に電話をかけました。心が落ち着かないまま話したのか、話をしながら号泣していました。母もまた、泣いていました」 めったに感情をぶつけない佳江さんの気持ちは、そのままお母さまに受け止めてもらえました。しかし、医師とのやりとりは深い傷になり、半ば自暴自棄に陥ったそうです。 「泣いた瞬間、それまで張りつめていた糸がぷつりと切れたのでしょうね。乳がんの放射線治療には通っていましたが、もう生きるためのアクションをなにひとつ起こす気になれなくて。結局、母から3人の弟に電話がいき、姉ちゃんを死なせたらただじゃおかない!と言われ、弟のひとりが『1回だけがん研有明病院にセカンドオピニオンをもらいに行こう』と予約を取ってくれました。でも自暴自棄だけに、それもまたしんどくて」 もういいよ、病院なんてどこも同じだよと口にしていた佳江さんですが、何度も言われ、そこまで心配してくれるならば申し訳ない、がんばって行かねばならないと、気持ちを切り替え放射線治療をいったん休み、有明病院に出向きました。 「ここが運命の分かれ道でした。結果的に言えば、行ってよかったです。がん専門の病院は何もかもが違いました」