さあ、日本選手権。社会人野球・監督たちの野球哲学/6 ヤマハ・美甘将弘
○…昨年は日本選手権優勝。
「浜松市民の方も、社内の皆さんも、"ホントに楽しかった、いいものを見させてもらった"とおっしゃるんですが、決まって"次は都市対抗だね"と続くんです。いま静岡県内には、企業チームがヤマハしかない。かつては多くの企業チームがあった野球どころですから、ウチが勝ち進めば、都市対抗という夏のお祭りがいっそう盛り上がるんです。都市対抗は夏祭りという位置づけなんですよね。今季は、その都市対抗出場を逃してしまった……」。
○…監督就任が2015年でした。当時から、チームは大人の集団であれ、と。
「現役時代、03年のシーズン後の面談で、"来季はマネージャー兼任でやってくれないか"という打診があったんです。思わず"わかりました"といってしまったあとで、ちょっと待てよ、と思ったんです。その年のヤマハは都市対抗出場を逃したんですが、私は三菱自動車岡崎に補強され、チームはベスト4に進出した。堀井哲也監督(現JR東日本)のもとで、ヤマハとは違う野球を吸収したので、それを自分のチームで生かせないかと考えていたところでした。それには、マネージャーという負担なしで、選手一本にこだわりたい。だから、もしその年に結果が出なければマネージャーを受けると直訴して、1年間は選手専念の猶予をもらったんです。
ですが自分で宣言した以上、必死でやるしかありませんよね。それまで、どちらかというと一匹狼的なところがあったんですが、練習でも試合でもよく声を出すようになり、個人の練習量も増えました。すると翌シーズン、いい結果が出たんです。"大人になれたな"と感じたのは、後に引けない覚悟で練習したこの経験からです。29歳では遅いんですが(笑)、だからこそいま、若い選手に対して"大人になれ"といえる。毎日やるべき当たり前のことをおざなりにせず、誠実に行うことが、大人の条件なんだよ、とね」
"たまたま"の連続で……
○…1974年生まれですから、松井秀喜の世代ですね。
「いや、とてもとても……岡山の蒜山中野球部は、体操服で練習するような、田舎の部活でした。でも井の中の蛙だから、日本の中学生で自分が一番うまいと思っていました。ただ津山工高で、上には上がいることを痛感しましたね(笑)。甲子園出場などとんでもなく、大学で野球を続けるかも不透明でした。たまたま東北福祉大に進んだんですが、ヤマハに入社したのも、たまたまけが人の代役で参加した練習が目に留まったらしいんです。たまたま、の連続で(笑)、先のことを考えるより、がむしゃらに目の前の課題をクリアしてきただけですね。
○…06年まで現役を続け、そのあと4年間は、いったん野球の現場から離れました。
「営業職に就きました。営業のプレゼンというのは、要はトークの反射神経なんですよね。そしてそのプレゼンのさじ加減は、得意先によっても違う。野球でも、A選手には通じた伝え方が、B選手にも通じるとは限りません。ですから人間性が違う個々人に、いかに気づかせるかがポイントですね。意思の疎通というのは、野球ではホントに大切です。ただ逆に、意思が通じ合っていると早とちりするのも、ときには大ケガにつながります。
大学3年でしたか、選手権の準決勝が延長になり、走者を三塁に置いて私の打席です。監督からは"スクイズもあるぞ"と聞いていましたが、2球目に"バント"のサインが出たんです。ん? バント? セーフティースクイズということかな……と迷い、三塁走者と、"どういうことかね?"という感じで顔を見合わせました。そして私は結局、"走者が走ったらバントをしよう"と思い、走者は"美甘がバントの構えをしたら走ろう"と考えたらしい。実際、私はバントの構えをしたんですが、バットを引いたんです。走者は、私がバントの構えをしたら走ろうとしていたわけですから、当然はさまれてアウトです。
この試合は最終的に勝ったんですが、あいまいな判断が相手に流れを渡しかねない大きなミスでした。ちょっとタイムをかけて、確認すればいいだけなのに、それをしなかった。いまでも鮮明に覚えていますね。三塁走者だったヤツと会うと、いまでも"あれ、なぁ……"と苦笑交じりで話しますよ」
※みかも・まさひろ/1974.7.12生まれ/岡山県出身/津山工高→東北福祉大→ヤマハ