追悼ヨハン・クライフ 彼がいなかったらサッカーは違うモノになっていた
現代サッカーに最も影響を与えた人物を1人述べよと言われたら、いの一番に名前が挙がらなければならない人物、ヨハン・クライフが亡くなった。この人が、サッカー界に存在しなければ、サッカーは観るスポーツとして、ここまで発展を遂げただろうか。高い娯楽性を内包するスポーツであり得ただろうか。20%増。それぐらい大きな役割を果たした人、偉人だと僕は思う。
「オランダの英雄」「伝説のサッカー選手」「空飛ぶオランダ人」等々、訃報を伝えるニュースは紹介しているが、それでは足りない。貴重さに迫ることができていないと思う。
選手としての魅力と、監督、指導者としての魅力。クライフには2つの側面がある。分かりやすいのは、映像が残されている選手としての魅力だ。
クライフの選手としての絶頂期は、1974年西ドイツW杯。その時、僕は中学生で、日本で中継された試合は西ドイツ対オランダの決勝戦のみだった。バルセロナ時代の映像も、テレビを通して頻繁に流れたわけではない。当時、情報の取得は大半がサッカー専門誌経由。そうした意味でクライフは遠い世界に棲む伝説の選手だった。
リアリティを感じたのは、ワシントン・ディプロマッツの一員として来日し、ヤンマーと対戦した時(1980年)ぐらい。右足のアウトサイドで蹴った地を這うようなボールが、タッチラインを割りそうになりながらも、きれいな回転でシュルシュルと、スライスラインを描くパッティングのように戻ってくる様子に感激した記憶がある。だがその時、それ以上の感激を、それからおよそ10数年後、バルサ監督時代のクライフから味わえるとは思わなかった。
現役の選手より、ずっと前に引退した監督の方が巧い。プレーするのはミニゲームの数分間だけだったが、練習場で彼はキレキレの技術を披露していた。
選手より巧い監督。かつて日本代表監督を務めたジーコもそのひとりだ。ごくたまにミニゲームでボールを蹴っていたが、ほれぼれするぐらい巧かった。スポーツには「名選手、名監督にあらず」の格言があるが、サッカーはそうなりがちな競技だ。練習で選手より巧くボールを扱う監督=元スーパースターが、一流の監督でいるケースはほとんどない。失礼ながら、ジーコはそのクチになる。
「名選手、名監督にあらず」が大半を占めるサッカー界で、クライフは一番の例外と言えた。そこに監督としてのカリスマ性を感じた。
名選手で名監督。しかも、クライフはただの名監督ではなかった。欧州で多くの監督に話を聞く中で、とりわけクライフの名前を出す人に多く出会った。影響を受けた人物として、である。クライフがバルセロナで実践したサッカーは、多くの指導者の心を動かしていた。
もう少しベテランになると、74年西ドイツW杯で見せたオランダのサッカー。当時のアヤックスのサッカーを挙げた。時の監督はリナス・ミホルス。没後、20世紀最高の監督としてFIFAから表彰された“トータルフットボール”の生みの親だ。
「トータルフットボールはサッカー界最大の発明。それが出現する前と後で、サッカーの概念は180度変わった」とは、後に“プレッシングフットボール”を提唱したアリーゴ・サッキ(元ミラン、イタリア代表監督)の言葉だ。「プレッシングフットボールは、トータルフットボールからヒントを得たその延長上にあるものだ」ともサッキは述べている。
リナス・ミホルスが提唱したトータルフットボールをバルサで実践したクライフ。その練習場である時期、僕はサッキの姿を何度か目撃したことがある。(トータルフットボール+プレッシングフットボール)÷2。現代サッカーがこの公式の上に成り立っているとすれば、クライフの存在価値はいっそう増す。
名選手であり名監督であり戦術家。だが、戦術家という名称は、元スーパースターには不似合いだ。プロ選手としての経験のないサッキの方がよく似合う。元スーパースター対研究者。戦術家らしく映るのは、サッカーでは断然、後者だ。実際、クライフは一見、戦術家らしくなかった。川上哲治というより長嶋茂雄だった。野村克也でもイビチャ・オシムでも全くなかった。
明るく爽やかでスポーティ。大きなジェスチャーを交えながら、朗々と言葉のシャワーを、まさにいい感じで浴びせかけてくれた。こちらを緊張させるような堅苦しさは一切なし。初めて話をうかがったのは、カンプノウ内にある監督室で、歴代の監督の写真やトロフィーがずらりと並ぶ場所だったが、その厳かな雰囲気とは対照的な、いい意味での軽さがその好感度を高めていた。
とはいえ話の中身まで軽かったわけではない。「勝つ時は少々汚くてもいいが、敗れる時は美しく」「娯楽性と勝利はクルマの両輪のように求めるべき」「つまらない内容の1−0なら、2−3で負けた方がいいくらいだ」等々、いまだに忘れられない言葉のオンパレードだった。僕にとってはまさにカルチャーショック。サッカー観は、クライフに話を聞く前と聞いた後で180度変わっていた。サッカー観というより人生観と言ってもいい。
戦術的な話もさることながら、哲学に迫る話に惹かれた。哲学者から聞かされたのならおそらく右から左へ素通りしていただろうが、およそ哲学者らしくない、私ではなく僕が似合う、万年青年を思わせるクライフから聞かされたところがポイントだった。素直にすんなり染み入ってくるのだった。
2002年日韓共催W杯の抽選会の際、韓国で話をうかがった時は、オランダサッカーの話が中心になった。フース・ヒディンクが韓国代表監督として大会に臨むということで「オランダのサッカーをアジアに宣伝するいい機会になる」と述べた。オランダサッカーとは攻撃的サッカーである。時の欧州は、守備的サッカーと攻撃的サッカーが対立軸を形成していて、クライフは攻撃的サッカーの旗振り役で通っていた。
しかし哲学の話と同様、押しつけがましくはなかった。「イタリアのサッカーって、ほんと守備的で退屈だよね」と言いながらも、「あっ、これは僕がそう思っているだけだけれどね」と、100%同意を求めるわけではなかった。
「僕はそう思うけど、無理に付いてこようとしなくていいから」
この言い回しに僕は何より好感を抱いた。自分の意見はしっかり主張するが、押しつけない。
たかがサッカー、されどサッカーではないが、変に深刻にならないさりげない誘い口調が、耳に心地よく入ってきた記憶がある。
ほどなくして、守備的サッカーは衰退。世の中は攻撃的な時代になった。(トータルフットボール+プレッシングサッカー)÷2の時代を迎えた。だがそうした歴史的背景は、日本に情報として伝わっていない。サッカー史に疎い日本人は、思いのほか多くいる。
クライフを信奉する指導者は、世界各地に溢れている。犬も歩けば棒に当たるほどだが、日本ではなかなか滅多にお目にかかることができない。1974年以降、欧州ではいったい何が起きていたのか。そこで長年、主役を務めてきた人物が急逝したいま、欧州近代サッカー史の学習を怠ってきた日本サッカー界の不幸を、僕は改めて痛感する。
「クライフって何?」とハテナ印が付くようでは、サッカーは強くなっていかない。日本は時代遅れになるばかりだと思う。
(集英社 Web Sportiva 3月28日 掲載原稿)