『どうする家康』で石田三成が襲撃を受けた屋敷跡にはどう行くの?
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NHKの大河ドラマ『どうする家康』の最新回「天下人家康」では、五大老の前田利家が死去したとで政治的バランスが崩れ、朝鮮出兵での恩賞や処罰に不満を持っていた、秀吉子飼いの七将による石田三成襲撃事件が起きました。
この動きを察知した石田三成は、大坂を出て、当時の政権の中心だった伏見城(京都市伏見区)の一角に構えた自邸に籠っていました。
伏見城へは、近鉄丹波橋駅、京阪の丹波橋駅などが利用でき、おおむね徒歩10分強の距離にあります。
両駅の西には、両替町の住所があり、太閤秀吉が作った町人の城下町の面影が残ります。
(※秀吉は甥の秀次に関白の地位を譲ったため、太閤と称されました)
伏見城のある高台へ上ってゆくと、ひときわ大きな敷地を感じさせる石垣。
何と、関ヶ原の戦いの西軍総大将・毛利輝元の大名屋敷の跡と考えられています(桃山高校の敷地付近)。
伏見城の入口です。
正面の緑地になっている部分(現在は明治天皇伏見桃山陵)に伏見城の天守台、右の竹林の一帯の池沿いに、石田三成の邸宅がありました。
七将による石田三成襲撃事件(※)が起きたとき、石田三成は竹林の辺りの部屋に控え、緊張の面持ちで様子をうかがっていたはずです。
(※近年、襲撃ではなく非道を訴えた抗議行動との見方もあり)
この「襲撃」にあたり、仲介し和睦に導いた1人が徳川家康。
当時は、伏見城の入口(少し上の写真)より南へ徒歩10分ほどの上屋敷(※)に滞在。『どうする家康』では、家康が七将の言い分に耳を傾けた場所です。
(※主に藩主が住む大名屋敷で、通常城の近くに立地)
現在は、乃木神社となっています。
現在の天守閣は、実は遊園地の伏見桃山城キャッスルランド(閉園)の置き土産です。
元の天守台とは場所も異なり、伏見城の入口を入って左手にあります。
模擬天守と聞けば少しがっかりするのですが、かなりの壮観です。
石田三成が去った後、徳川家康は伏見城内に居を移します(もともと城主という地位は持っていた)。
関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで、人質時代から家康を守ってきた・鳥居元忠が守る伏見城は、西軍の攻めを受けることになります。
伏見城の南東約6キロに位置する、京都競馬場には池があります。
この池は、かつて伏見城の南方に広がっていた、湖のような規模を誇った巨椋池(おぐらいけ)の水があふれ出て、周囲にできた池の名残りと考えられています。
『どうする家康』では、秀吉や家康、三成が、大坂城との間をちょくちょく行き来しますが、移動はどうしていたのでしょうか? 実は、巨椋池の水域を秀吉が堤を作り調整した宇治川が流れており、水路を辿って移動していたのです。
地震で倒壊した元の伏見城(指月伏見城)は、南に宇治川と巨椋池を望む、絶景であったと考えられています。このことは、ブラタモリで紹介されていました。
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