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【深掘り「鎌倉殿の13人」】御家人が畏怖した、源頼朝にまつわる恐るべきエピソード3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本当は恐ろしかった源頼朝。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はいったん休憩で、座談会となった。今回はこれまでの登場人物の逸話を取り上げ、詳しく掘り下げてみよう。

①上総広常を怒鳴りつける

 治承4年(1180)8月、源頼朝は打倒平家の兵を挙げたものの、翌月の石橋山の戦いで惨敗を喫した。頼朝は安房国に脱出し、東国の御家人の協力を得ながら再起を期した。

 とはいえ、すべての豪族が協力的なわけではなかった。上総国に絶大な勢力を保持していた、上総広常もその1人である。広常は約2万といわれる軍勢を率いて、頼朝のもとに参上したが、いささか遅れてしまった。

 普通ならば涙を流して喜ぶところであるが、頼朝は広常の遅参を咎めて一喝したという。この逸話は頼朝のカリスマ性を高めるため、創作されたように思える。近年では、広常が最初から頼朝に与したといわれている。

②弟の源義経を一喝

 頼朝が打倒平家の兵を挙げると、弟の義経が奥州藤原氏の反対を押し切って馳せ参じた。さすがの頼朝も、義経が参上したことには大いに感激したと伝わっている。

 養和元年(1181)7月の鶴岡若宮宝殿の上棟の式典において、頼朝は大工に与える馬を引くよう義経に命じた。すると義経は露骨に嫌な顔をして、その役を断ろうとしたのである。

 すると頼朝は激怒し、「卑しい役と思って断るのか」と一喝した。すると、義経は恐れおののき、すぐに馬を引いた。たとえ弟であっても許さないという、頼朝の強い態度を示している。

③弟を匿った藤原泰衡を討伐

 文治4年(1188)、頼朝は朝廷から院宣を得て、奥州に逃れていた義経を討つよう、藤原泰衡に命じた。泰衡はすぐに行動に移さなかったので、頼朝はつい業を煮やして、泰衡を討とうと考えた。

 翌年閏4月、泰衡は意を決して義経を討ち、その首を頼朝のもとに届けた。すると、頼朝は泰衡がこれまで義経を匿ってきたことを咎め、大軍を送り込んで泰衡を討伐したのである。

 頼朝が義経を討とうと思っていたのは事実であるが、そもそも奥州藤原氏も滅ぼすと考えていたのは明らかだろう。結局、どっちに転んでも、頼朝は残酷なことに、義経と泰衡を討伐しようと考えていたのだ。

■まとめ

 いずれの逸話も、御家人が聞けば恐怖するものだったに違いない。頼朝は伊豆の流人にすぎなかったが、生まれながらの統率力とカリスマ性を持っていた。

 ここに挙げたのはほんの一例にすぎないが、東国の豪族は頼朝にひれ伏すしかなかったようだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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