【日本酒の歴史】北の大地での飽くなき挑戦!満州での醸造業について
その昔、寒風吹き荒ぶ満州の地に、日本人たちが意気揚々と入植しました。
満州は寒さが厳しく、若き血潮の日本人たちは内地よりも酒を愛したといいます。
清酒消費量が日本本国の2倍にも膨れ上がったそうです。
これでは清酒がいくらあっても足りません。
内地から清酒を送り込むにも限界があります。
そこで日本人たちは「この満州で清酒を作ろう」と一念発起したのです。
しかし、これがまた一筋縄ではいきませんでした。
まず、水の問題。満州の水は硬く、酒造りには不向きでした。
そして、使える米も満州産が中心で、酒造に適したものではなかったのです。
設備もお粗末で、品質の良い酒を作ろうとしても失敗が続きます。
加えて極寒の地ゆえ、出来上がった酒があっという間に凍ってしまう始末。
これではどうにもならん。
日本酒造りの名人たちは頭を抱えたが、それでも諦めずに研究を重ねました。
1939年、青島市の千福青島工場で、日本人技師の田中公一が革命的なアイデアを実行に移します。
甘味果実酒のアルコール添加技術を応用し、清酒にもアルコールを加えてみたのです。
これが意外にうまくいき、満州の厳しい寒さでも凍らない、安定した清酒が出来上がりました。
この試験的な成功が火付け役となり、1941年には「第一次酒」として満州全土で採用されることとなったのです。
アルコール添加の妙技が、満州の清酒事情を一変させました。
ところが、内地では太平洋戦争の影響で米不足が深刻化し、清酒の原料確保も難航していたのです。
内地の酒造りの大家であった白鶴の嘉納純は、「満州の成功例を内地でもやってみてはどうだ?」と政府に進言します。
1942年、内地でもアルコール添加を取り入れる試験が行われ、ここに新たな増醸酒の道が開かれました。
しかし、これには賛否両論が渦巻いたのです。
アルコール添加によって酒の純粋性が失われ、品質が低下するのではないか、という懸念がありました。
批判を受けつつも、アルコールの添加は進められ、やがてアルコール専売法の改正により、アルコールの供給が各酒造場に行われるようになったのです。
だが、戦局の悪化によりアルコールの原料も不足し始め、最後には小学生たちが山野で拾ったドングリまでがアルコール製造の材料とされたのです。
満州ではさらに進化が見られました。
酒の甘味が不足しているならば、糖類を添加してしまえ、という大胆な発想が満州国経済部試験室で生まれたのです。
白米10石に対して大量のアルコールを加え、さらに糖類を加えることで、酒の生産量を倍増させた「第二次酒」が製造されました。
関東軍の決断もあって、この方法は1943年には広く採用され、満州では甘味成分の増強や補酸添加によって、極寒の地でも安定した酒が提供されるようになったのです。
こうして満州での増醸技術はさらなる進化を遂げ、1949年には日本本土でも「三倍増醸酒」という形で全国的に広まりました。
この酒は、アルコールを添加しない清酒の3倍もの量にまで増やせる画期的な技術であり、以後、戦後の日本における酒造りの一つのスタンダードとなっていったのです。
増醸酒の歴史には、寒さと資源不足に立ち向かいながらも、酒を愛し、創意工夫を尽くしてきた人々の苦労と知恵が詰まっています。
戦火をくぐり抜け、時代の変遷とともに進化を続けた増醸酒――その一杯の背後には、数多の技師たちの涙と汗、そして、ほろ苦い香りがしっかりと染み込んでいました。
参考文献
坂口謹一郎(監修)(2000)『日本の酒の歴史』(復刻第1刷)研成社