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【日本酒の歴史】北の大地での飽くなき挑戦!満州での醸造業について

華盛頓Webライター
credit:unsplash

その昔、寒風吹き荒ぶ満州の地に、日本人たちが意気揚々と入植しました。

満州は寒さが厳しく、若き血潮の日本人たちは内地よりも酒を愛したといいます。

清酒消費量が日本本国の2倍にも膨れ上がったそうです。

これでは清酒がいくらあっても足りません。

内地から清酒を送り込むにも限界があります。

そこで日本人たちは「この満州で清酒を作ろう」と一念発起したのです。

しかし、これがまた一筋縄ではいきませんでした。

まず、水の問題満州の水は硬く、酒造りには不向きでした。

そして、使える米も満州産が中心で、酒造に適したものではなかったのです。

設備もお粗末で、品質の良い酒を作ろうとしても失敗が続きます

加えて極寒の地ゆえ、出来上がった酒があっという間に凍ってしまう始末。

これではどうにもならん。

日本酒造りの名人たちは頭を抱えたが、それでも諦めずに研究を重ねました。

1939年、青島市の千福青島工場で、日本人技師の田中公一が革命的なアイデアを実行に移します

甘味果実酒のアルコール添加技術を応用し、清酒にもアルコールを加えてみたのです。

これが意外にうまくいき、満州の厳しい寒さでも凍らない、安定した清酒が出来上がりました。

この試験的な成功が火付け役となり、1941年には「第一次酒」として満州全土で採用されることとなったのです。

アルコール添加の妙技が、満州の清酒事情を一変させました。

ところが、内地では太平洋戦争の影響で米不足が深刻化し、清酒の原料確保も難航していたのです。

内地の酒造りの大家であった白鶴の嘉納純は、「満州の成功例を内地でもやってみてはどうだ?」と政府に進言します。

1942年、内地でもアルコール添加を取り入れる試験が行われ、ここに新たな増醸酒の道が開かれました

しかし、これには賛否両論が渦巻いたのです。

アルコール添加によって酒の純粋性が失われ、品質が低下するのではないか、という懸念がありました。

批判を受けつつも、アルコールの添加は進められ、やがてアルコール専売法の改正により、アルコールの供給が各酒造場に行われるようになったのです。

だが、戦局の悪化によりアルコールの原料も不足し始め、最後には小学生たちが山野で拾ったドングリまでがアルコール製造の材料とされたのです。

満州ではさらに進化が見られました。

酒の甘味が不足しているならば、糖類を添加してしまえ、という大胆な発想が満州国経済部試験室で生まれたのです。

白米10石に対して大量のアルコールを加え、さらに糖類を加えることで、酒の生産量を倍増させた「第二次酒」が製造されました

関東軍の決断もあって、この方法は1943年には広く採用され、満州では甘味成分の増強や補酸添加によって、極寒の地でも安定した酒が提供されるようになったのです。

こうして満州での増醸技術はさらなる進化を遂げ、1949年には日本本土でも「三倍増醸酒」という形で全国的に広まりました

この酒は、アルコールを添加しない清酒の3倍もの量にまで増やせる画期的な技術であり、以後、戦後の日本における酒造りの一つのスタンダードとなっていったのです。

増醸酒の歴史には、寒さと資源不足に立ち向かいながらも、酒を愛し、創意工夫を尽くしてきた人々の苦労と知恵が詰まっています

戦火をくぐり抜け、時代の変遷とともに進化を続けた増醸酒――その一杯の背後には、数多の技師たちの涙と汗、そして、ほろ苦い香りがしっかりと染み込んでいました。

参考文献

坂口謹一郎(監修)(2000)『日本の酒の歴史』(復刻第1刷)研成社

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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