【日本酒の歴史】質の悪い酒が流通していた!戦後すぐのお酒の事情について
戦後間もない昭和の混沌とした時代、酒造業もまた、戦火と飢餓の影響から逃れられなかったのです。
1945年には鑑評会や品評会すらも開催されなかったが、翌年には何とか再開されました。
しかし、米不足が深刻であったため、精米歩合は70%に制限されるなど、かつての味わいを取り戻すには程遠かったのです。
長野県の『真澄』が、戦前からの名声を背負い、戦後の鑑評会で再び脚光を浴びました。
そして、この『真澄』から分離された酵母「協会7号酵母」は全国に広がり、瞬く間に蔵人たちの信頼を集め、全国の出品酒の多くに使われるようになったのです。
一方で、正式な酒が手に入りにくくなり、闇酒が闇市で横行するようになりました。
その中でも危険極まりないのが「メチル」や「カストリ」などと呼ばれる密造酒たちです。
メチルはもともと燃料用のアルコールにメチルアルコールを混ぜ、危険を知らせるためにピンク色に染められていたものの、飢えた人々は危険を承知で手を伸ばし、中には失明や死に至る者もいたといいます。
新聞には「命散(めちる)」などの不吉な見出しが並び、世相の暗さを象徴していました。
さらに、「カストリ」や「バクダン」などの怪しげな密造酒が続々と登場し、それらが闇市を賑わせたのです。
中でもバクダンは、戦時中に余った燃料アルコールを濾して即席焼酎として売り出したもので、命を散らした飲兵衛たちも少なくありません。
1949年には、菊正宗の偽ラベルを印刷していたブローカーが逮捕される事件も発生します。
戦後の混沌の中で、人々は命を削ってでも一杯の酒を求めた、まさに昭和の哀しき風景でした。
参考文献
坂口謹一郎(監修)(2000)『日本の酒の歴史』(復刻第1刷)研成社