中央アジアで影響力を失っていくロシア。制裁でEUへのガス輸出にチャンス到来。カスピ海会議は隙間風?
黒海から東へ、コーカサス地方を越えた所にあるカスピ海。
欧州からカスピ海を越えて東に入ると、アジアの雰囲気を感じさせ始める(と思う)。
そんなカスピ海沿岸の5カ国の首脳が集まる会議が開かれた。2−4年おきに開かれており、今回で6回目である。
カスピ海に面している5カ国とは、ロシア・アゼルバイジャン・イラン・トルクメニスタン・カザフスタンである。
6月29日、トルクメニスタンの首都アシガバートに、プーチン大統領はウクライナ戦争が始まって以来、初めての外遊をした(ここに来る前に、タジキスタンに寄っている)。
本題に入る前に、まずこのカスピ海沿岸国サミットの様子なのだが・・・。公開された以下の写真を見ていただきたい。
何だこれは・・・。ツイートの投稿者は「おそらく真ん中でホッケーするのにピッタリだろう」と書いている。以前、マクロン大統領が訪露したときも恐ろしく距離があったが、それ以上かと思われる。
ちなみにプーチン大統領は、正面に向かって左のテーブル、正面寄りの場所にいる(一応、もう少し距離が近い丸テーブルでの公式写真も、あることはある)。
時事通信によると、空港に降り立った首脳たちに対して、プーチン氏だけ出迎えが簡素だった。
空港でカザフスタンのトカエフ大統領やアゼルバイジャンのアリエフ大統領は、民族衣装の少年らから、ロシアや旧ソ連圏で伝統の「パンと塩」や花束などで歓迎を受けた。
だが、プーチン氏にこうした対応はなし。独りでタラップを降りると、歩きながら暑そうにジャケットを脱ぎ、専用車に乗り込んだ。異例の光景に、インターネット上では「毒を盛られることを恐れて、パンを口にするのを嫌ったのではないか」「人々との濃厚接触を恐れている」という声が上がったのだという。
でも6月30日、来るG20のホスト国であるインドネシアのジョコ大統領がモスクワを訪れたときや、ベラルーシのルカシェンコ大統領のときは、至近距離で普通に話をしたイメージ写真を広めているではないか。
あのホッケー写真、いかにも今回のカスピ海首脳会議の有り様を表しているように、筆者には感じられた。
日本のニュースでは「プーチン大統領としてはエネルギー分野でのロシアの存在感を示し、ロシアが勢力圏と見なす旧ソビエト諸国や、中東のイランとの結束を強調し欧米側をけん制したい思惑があるとみられます」ーーといった調子の報道が主になっている。
しかし筆者の目には、この会議は「同床異夢」であり、写真での各国首脳の距離のように、隙間風が吹いているどころか、大木枯らしが吹きすさんでいるように見えたのだった。
何が問題かと言うと、欧州や中国に通じるインフラの問題である。額も規模もケタ違いで、ロシアが窮地の今、他国にとってはまたとない大ビジネスチャンスである。そう簡単に大国ーーここではロシアとイランーーのいいなりにはなれないだろう。
取り上げるのはガスパイプラインだ。続編では中国と結ぶ鉄道を書く予定である。
欧州とトルクメニスタンを結ぶ、ガスのパイプライン
トルクメニスタンの天然ガス埋蔵量は、50兆m3 と推定されている。
同国にとって、このガスを欧州に輸出するのは長年の悲願であった。
現在、同国はEU、トルコ、ジョージア、アゼルバイジャンと共に、年間100 億ー300 億 m3の容量を持つガスパイプライン建設の可能性について協議している。
欧州からカスピ海をまたいでトルクメニスタンへ。4つのガス・パイプラインが接続するという、日本では考えられない、いかにも壮大な大陸のエネルギー政策である。
欧州とアゼルバイジャンの間は、3つのガスパイプラインが接続して稼働している。既にアゼルバイジャンのカスピ海沿岸部から、EU加盟国等にガスを運んでいる。
上記地図の3つのパイプラインを説明しよう。
1,アゼルバイジャンからトルコまでは「南コーカサス横断パイプライン」SCP(South Caucasus Pipeline)。緑の線。
2,ジョージアからトルコまでは、「アナトリア横断パイプライン」=TANAP(Trans-Anatolian gas pipeline)。赤の線。
3、トルコから欧州へのパイプラインは「アドリア海横断パイプライン」=TAP(Trans Adriatic Pipeline) 。黄色の線。
これに、トルクメニスタンからカスピ海を渡って、アゼルバイジャンまで「カスピ海横断パイプライン」=Trans-Caspian Gas Pipelineを加えようというのだ。全長300kmである。
カスピ海を渡りさえすれば、EUという大市場につながることができるのだ。
上記一連のラインを「南部ガス回廊」=Southern Gas Corridorとも呼ぶ。
最難問だった「カスピ海は誰のものか」
実はこの計画は、今に始まったことではない。
2011年9月、EUは「カスピ海横断パイプライン」の交渉にGOサインを出している。ロシアのガスプロムのEU市場への独占供給ルートに代わるものとして、既に注目していたのだ。
ところが、今まではひどく難航していた。
この計画と建設には、ロシアとイランが厳しく反対してきたためだ。自分たちが外されているのだから、当然である。
特にロシアは、ソ連に属していた両国が組んで、ロシアのガス覇権を脅かすのを嫌ったと言われる。
結局、紆余曲折を経て、 トルクメニスタンはガスの輸出は、ほぼ中国向けだけになっていた。
同国は、実質的には中露に対して中立であった。
旧ソ連邦なのでロシアと強いつながりを持っている。ガス産業分野では、ロシアの専門知識に一部依存している。
同時に、中国の「一帯一路」構想の重要な中継地でもあり、上海協力機構に客員参加している。
さらに根源的な問題は、「カスピ海は誰のものか」という、ソ連崩壊以来の超難問であった。
カスピ海は「海」と名前があるが、実際には閉じられていて巨大な湖のようなもの。海でもなく湖でもないために、議論は紛糾したのだ。
カスピ海には、300兆m3ものガスが埋蔵されていると言われる。
昔は、ソ連とイランしかカスピ海に面していなかったので、二国間条約で済んでいた。冷戦崩壊でソ連の各共和国は独立し、国の数が増え、カスピ海は法的に空白地帯となっていた。ガスだけではなく石油の地下資源もあり、軍事的な緊張が起こっていたという。
大変長い間、20年以上、51回も作業部会で交渉を重ねたのち、やっと2018年8月12日、第5回カスピ海サミットで、5カ国は条約に調印した。内容は大ざっぱにいうと、海上は国際水域として、海底は領土としてゾーンで分けるという、二つのやり方を適用したのだ。カスピ海独自の決まりをつくったと言える。
すべての紛争を終結させるものではないと考えられたが、法の空白地帯に合意が出来ただけでも大進歩であり、長年の緊張を和らげるのに役立つと期待された。
これで、海底に敷くパイプラインは、該当国の合意だけで良くなった。
ロシアは大幅に妥協したのだが、この協定により、第三国がカスピ海に軍事基地を持つことが禁止されたので、この地域におけるロシアの軍事的優位が強固になると予想されていた。
トルクメニスタンはというと、第一回のカスピ海首脳会議から、カスピ海分割論を支持してきた。合意の日8月12日は「カスピ海の日」と宣言している。世界で最も閉鎖的な国の一つと言われていることを考えれば、いかに合意を歓迎しているかがうかがい知れる。
最も大きな領土・領海問題が解決し、友好的なアゼルバイジャンとも懸案事項について着々と合意は進んでいった。
そんな時、ウクライナ戦争という、大ビジネスチャンスが訪れたのである。
EU側の事情
EUの側では、この計画はあまり早く進んでこなかった。
理由の一つは、トルクメニスタンの政治体制がある。
同国は基本的に一家で運営されており、民主主義の欠如、人権侵害、メディアの抑圧、強制収容所の疑惑などの深刻な問題で、西側諸国から長い間非難を受けてきた。
ヒューマン・ライツ・ウォッチはトルクメニスタンを「世界で最も孤立した、圧政国家の1つ」と呼んだことがある。「中央アジアの北朝鮮」と呼ばれることも多い。
トルクメニスタンにパイプラインを建設する資金力と技術力があるのかというと疑問符がつくのであり、「実際にはつくるのではなく、つくってもらう」と表する現地発の記事もある。
ガスの買い手であるEU側が乗り気でないと、欧米企業のみならず、他の国の企業も乗り出してこないのではないか。
しかし、ウクライナ戦争という非常時で、EUでは今まで重視してきた様々なことが、脇に押しやられている傾向がある。
EUにとってのエネルギー最優先事項は、ロシアからの輸入を大幅に減らすことである。
3月の「Repower EU」計画の概要では、2030年までにロシアからの化石燃料の輸入を全廃すると謳っていた。
5月下旬の正式書類では、トーンがやや落ちてこのフレーズは書かれていなかったものの、ロシア産ガスの輸入削減に、EUが大車輪で取り組んでいることにかわりはない。
トルクメニスタンにとっては、積年の念願を叶えるための、またとないチャンスである。
プーチン大統領の言葉もむなしく
プーチン大統領は、生物多様性と環境問題を理由に、パイプラインの建設に反対を表明、対話の重要性を強調した。
もともとカスピ海の合意には「そのプロジェクトが生態学的要件と基準に合致していることが条件」とも規定されているのだ。この条項をロシアはフルに利用するだろう。
カスピ海サミットの演説では、プーチン大統領は沿岸5カ国は「エネルギー分野で協力する大きな機会がある」と述べた。
ロシア政治が専門の中村逸郎・筑波大学名誉教授は、デイリー新潮に以下のように説明している。
ロシアの衛星国と呼ばれる中央アジアのなかで、プーチン支持を明確に打ち出しているのは(戦争開始後、初めて訪れた)タジキスタンしかなく、他の4か国には「プーチン離れ」ともいえる動きが起きている。
ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、トルクメニスタンは、いずれも欧米との経済的結びつきが強く、プーチン支持を打ち出すことで経済制裁を課される事態を恐れている。
そのため「暗殺」などのリスクもあるなか、このタイミングで侵攻後初となる外遊に臨まざるを得なかったのが真相である
中村氏によれば、実際、中央アジア4か国ではプーチン大統領からの国家勲章を辞退したり、国内でウクライナ侵攻のシンボルとなった「Z」マークのステッカーを車などに貼ると罰金刑に処したりするなどの動きが出始めているという。
別の評価では、カスピ海の合意は、ロシアにとって、大幅に妥協することで突破口を開き、合意をまとめあげる外交力を示す形だったというものもある。
イランがどう出るのかは、今後一つの重要なポイントになるだろう。イランは中央アジア外交を本格化させており、複数の記事で、イランは欧米側に着くことを国益と見るのではないかという観測がなされているのは、興味深い。
(トルコや中国の影も感じるが、カスピ海沿岸国ではないので、この稿では言及しない)。
ロシアの立場は圧倒的に不利である。大幅に譲歩したことで得るものがカスピ海域の軍事的優位だったとしても、その優位性をこの地域でいかす力は、ロシアには当分の間ないだろう。
パイプラインはすぐに完成するものではないし、EUがどこまでトルクメニスタンの政治体制に目をつぶるかわからない。しかし、中央アジアにおけるカスピ海地域で、ロシアの影響力が低下するのは、止められそうにない。
◎参考記事(CISTECジャーナル2022年5月号・筆者執筆):〈6〉ロシア産ガス輸入をゼロにする。代替ガスをどこに求めるか ―EUの団結とエネルギー共通政策(16ページ。要会員登録)