中世から続いていた、地方病と人々の戦い
人類の歴史は病気との戦いの歴史と言っても過言ではありません。
日本においても甲府盆地にて地方病が蔓延しており、地方病との戦いは山梨県の歴史に大きな比重を占めているのです。
この記事では地方病との戦いの軌跡について紹介していきます。
地方病とは?
地方病とは、寄生虫である日本住血吸虫によって引き起こされる人獣共通感染症です。
別名として日本住血吸虫症とも呼ばれています。
この寄生虫は、ミヤイリガイという淡水産巻貝を中間宿主とし、感染は主に河水に浸かった哺乳類の皮膚から幼虫が侵入することで始まります。
この病気の名称に「日本」が含まれているのは、初めて山梨県甲府市で原因となる寄生虫が発見されたことによるもので、日本独自の疾患というわけではありません。
実際には中国やフィリピン、インドネシアなどで多くの新規感染者が報告されており、世界保健機関(WHO)は今も対策を講じているのです。
日本国内では1978年に山梨県で最後の新規感染者が確認され、1996年に終息宣言が出されました。
国内での流行地域は、山梨県甲府盆地、茨城県・千葉県の利根川下流域、静岡県浮島沼周辺など限られた場所に集中していたのです。
とりわけ甲府盆地は国内最大の罹病地帯で、原因究明から治療法の開発、予防策の確立に至るまで、日本住血吸虫症対策の中心地でした。
その撲滅に至る歴史は、山梨県の近代医療の発展を象徴するものであるといっても過言ではありません。
甲斐の国の難病
『甲陽軍鑑』の品第五十七には、織田信長の攻勢により武田氏が衰退する中、武田家臣・小幡昌盛(小幡豊後守)が重病のため従軍できず、同僚の土屋昌恒を通じて主君・武田勝頼に永訣の暇乞いに来る場面が描かれています。
その際、昌盛の病状について「積聚の脹満」と記されているのです。
この「積聚」は東洋医学の用語で、腹部の異常を指し、「脹満」は腹部が膨らんだ状態を意味します。
つまり「積聚の脹満」とは、腹部の病気による膨満を示しており、この時点で昌盛はすでに自力で歩くことが困難だったと推察されます。
この描写は、典型的な地方病の症状と一致し、これを根拠に、このくだりが地方病の最古の記録とする見解があるのです。
地方病は肝臓や腹部に寄生虫(日本住血吸虫)の卵が蓄積することで発症しました。
感染が進行すると、血管内で増殖した虫卵が血流を妨げ、門脈の血圧が上昇、これが腹水の貯留や腹部静脈の怒張(を引き起こし、最終的には致命的な合併症に至ります。
さらに、肝硬変から肝臓がんへの進行、あるいは脳に虫卵が達し、片麻痺や失語症などの深刻な脳疾患を引き起こすこともありました。
この病気に罹った患者は、初期症状として発熱や下痢を起こしますが、進行すると手足が痩せ、皮膚が黄色くなり、やがて腹水がたまり腹部が膨らみます。
この状態になると患者は介護なしでは動けず、最終的には死亡に至りました。
特に農民に多く見られたこの病は、当時の甲斐国では「小作農民の生業病」として、彼らの宿命とまで言われていたのです。
江戸時代後期から幕末にかけて、この奇病に関することわざも生まれました。
「水腫脹満 茶碗のかけら」という表現は、この病に罹ると割れた茶碗のように再び元には戻らず、やがて廃人として死に至ることを意味しています。
また「夏細りに寒痩せ、たまに太れば脹満」ということわざは、貧しい暮らしの中で痩せ細っていた農民が、太るとすればこの病に罹った時だけという、当時の人々の悲哀を表しています。
このように、寄生虫の存在すら知らなかった当時の人々にとって、地方病は原因不明の奇病であり、その謎は長らく解明されることはありませんでした。