Yahoo!ニュース

イギリス史の大きな分岐点となった、火薬陰謀事件

華盛頓Webライター
credit:unsplash

イギリスは11月5日がガイ・フォークス・ナイトという記念日となっています。

このガイ・フォークス・ナイトは1605年に起こった火薬陰謀事件に由来しているのです。

この記事では火薬陰謀事件が起こった遠因について紹介していきます。

反カトリックの機運が高まっていた16世紀のイギリス

さてさて、かのイングランド女王エリザベス1世の宗教政策を語るにあたっては、まずその前の時代の波乱から話を始めねばなりません。

というのも、エリザベス1世が即位した時、すでにイングランドという国は幾重にも折り重なった宗教的混乱の只中にあったのです。

時は1533年から1540年にかけて、イングランド王ヘンリー8世が、ローマ教皇庁に刃向かい、イングランド国教会を新たに立ち上げた頃から、全ての波紋は始まりました。

カトリック教徒たちは、急速にプロテスタントへと宗教的路線を転換した国家の中で、生き残りを余儀なくされたのです。

だが、その圧力は娘メアリー1世の治世下で少々和らいぎました。

あの「血のメアリー」として知られる女王です。

しかしその一時の揺り戻しも束の間、メアリーがその短い命を閉じた後、ヘンリーのもう一人の娘、エリザベス1世が玉座に就いた時、イングランドの宗教政策は再び方向転換を余儀なくされました

さて、このエリザベス1世という女王、ただの君主ではありません。

国教会を支持し、自らを国家と教会の頂点に据えることを狙いました。

その施策が「エリザベス朝の宗教的解決」です。

教会や公職に就く者には、君主への忠誠を誓う宣誓が求められ、それを拒否すれば罰金、さらには投獄、最悪の場合は処刑という厳しい運命が待っていました

こうしてカトリック教徒たちは圧迫され、地下に潜りながらも信仰を守ろうとしたのです

拷問や処刑の恐怖が彼らを追い立て、宗教的暗闘が続きます。

ここでまた興味深いのは、王位継承の問題です。

エリザベス女王は、未婚で子供もいないまま、後継者を指名することを拒み続けました

多くのカトリック教徒は、彼女のいとこであるスコットランド女王メアリーこそが正統な後継者であると考えていたものの、そのメアリーも1587年に反逆罪で処刑されてしまいます

この一件は国中を揺るがし、エリザベスの晩年には次なる王位継承者をめぐる密かな交渉が進んでいました。

そこで重要な役割を果たしたのが、国王秘書長官ロバート・セシルです。

彼はスコットランド王ジェームズ6世、つまりメアリーの息子と水面下で話をまとめ、エリザベスの死後、1603年にはジェームズ6世がイングランド王として即位する運びとなりました

新王ジェームズ1世の戴冠は、全般的に歓迎され、教皇派の者たちですら、この自然な継承に抗うことなく、新君主を受け入れたというのだから、人間というものの柔軟さ、いや現実主義には感心せざるを得ないでしょう。

さて、ここからはジェームズ1世の治世について少々触れねばなりません。

彼のカトリック教徒に対する姿勢は、前王エリザベスほど厳しくはなかったと言われています。

「静かで、表面上でも法に従う者には手を出さない」と誓ったほどで、どちらかというと死刑よりも国外追放を好んでいました。

そんな中、エリザベス時代から続いていた英西戦争も、彼の手によって1604年にはロンドン条約が結ばれ、終戦を迎えたのです。

しかし、そうした穏健な政策にもかかわらず、カトリック教徒の一部にはジェームズの宗教政策に不満を抱く者もいました

その象徴が1605年の「火薬陰謀事件」です。

この事件は、過激派カトリック教徒ロバート・ケイツビーが国王を貴族院ごと爆殺しようと企てた陰謀であり、さらには国王の娘エリザベスを擁立してカトリック王朝を復興しようという大胆な計画だったのです。

参考文献

アントニア・フレイザー著 加藤弘和訳(2003)『信仰とテロリズム:1605年火薬陰謀事件』慶応大学出版会

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

華盛頓の最近の記事