超能力を巡って日本中を騒がせた、千里眼事件
現在で超能力は完全なオカルトとして扱われています。
しかし明治時代においては科学的な手法を用いて超能力を解明しようとする動きがありました。
この記事では超能力を巡って日本中を騒がせた千里眼事件について紹介していきます。
二人の女性超能力者
明治42年、熊本県に千里眼の才女が現れました。
その名は御船千鶴子、若干23歳にして「千里眼」能力を持つと噂され、世間を騒がせたのです。
彼女の力を最初に見出したのは義兄の清原猛雄です。
清原は催眠術を用いた心霊療法を行っており、千鶴子もその影響で体内透視の「治療」を始めたといいます。
ちょうど世間では催眠術ブームが巻き起こっていた時代で、千鶴子の名は瞬く間に広がっていきました。
千鶴子を最初に大きく取り上げたのは、明治42年8月の『東京朝日新聞』であった。
彼女が京都帝国大学の元総長、木下広次を透視したとの報道がセンセーションを巻き起こしたのです。
さらに、実際に透視実験を行った今村新吉が、熊本に赴きカードを用いた実験で高い的中率を得たとされ、千鶴子の名声は一気に高まりました。
だが、成功だけではありません。翌明治43年4月、再び熊本で実験が行われたが、厳重に封印したカードの透視に失敗し、世間の期待に応えきれなかったのです。
その後、福来友吉らが東京で実験結果を報告すると、千鶴子はさらに話題の的となるも、上京して行われた公開実験では不正疑惑が浮上し、学者やジャーナリストの関心を集めつつも真相は不明のままになりました。
最後には千鶴子自身も疑念を払拭することができず、周囲の冷めた視線と重圧の中、彼女は熊本へ戻り翌年に悲劇的な最期を遂げたのです。
その死後、彼女への非難は止むことなく、世間の記憶に残る「千里眼」の謎は、皮肉にもさらなる謎を生む結果となったのです。
また香川県丸亀のある静かな屋敷に、長尾郁子という不思議な夫人がいました。
彼女は災害を予言することで身近な人々の間で話題になり、噂は、あの千鶴子の耳にも届いたとのこと。
そして、千鶴子に続く「千里眼」として注目されるのも時間の問題であったのです。
郁子の透視は、千鶴子とは一味違います。
実験では同席者の目の前で透視を行い、さらには福来の考案した「念写」にも成功したのです。
明治44年1月、物理学者の山川健次郎が丸亀の長尾邸を訪れ、透視と念写の実験を行いました。
しかし、これが波乱の始まりとなったのです。
何やら実験が行われる部屋を特定する奇妙な要求や、封筒に開封の痕跡が残るなど、いかにも怪しげな出来事が次々に報告され、山川は「この透視、真偽に疑いあり」と疑念を抱くに至りました。
さらに、郁子の周囲には催眠術師の横瀬琢之なる人物が出入りしていました。
実験だけでなく、郁子と横瀬の噂が広まり、ついに二人の関係を疑うゴシップが世間を沸かせることに。
世の人々は透視の真偽よりも、この奇妙な愛憎劇に夢中になり、肝心な「千里眼」はそっちのけ。
やがて郁子は病死し、その死までが批判の的となったのです。
山川たちは後日、写真とともに実験結果を報告し、「これは科学でなく、ただの手品に過ぎない」と結論を出します。
かくして「念写」とは、まるで夢と現実の狭間に消えていく蜃気楼のような、不思議な幕切れとなりました。
騒動の終焉
「千里眼」はついに科学の光を逃れ、暗い迷路の果てへと消えていきました。
福来ら科学者たちも、次第にメディアの攻撃を浴び、ついには「千里眼は科学に非(あら)ず」と一方的な宣言を出して幕を引いたのです。
千鶴子や郁子といった名うての「千里眼」たちも、世間から手品師の烙印を押され、死後まで実家は非難にさらされる始末でした。
追い詰められた福来は帝大を辞し、その後も独自の「千里眼」研究に没頭するものの、次第に科学の正道からは遠ざかり、オカルティズムの迷宮に足を踏み入れるようになります。
こうして、千鶴子たちが残した千里の夢は、世の幻と化して消え去ったのです。
参考文献
長山靖生(2005)『千里眼事件 科学とオカルトの明治日本』平凡社