カトリックの貴公子が企てた、火薬陰謀事件
イギリスは11月5日がガイ・フォークス・ナイトという記念日となっています。
このガイ・フォークス・ナイトは1605年に起こった火薬陰謀事件に由来しているのです。
この記事では火薬陰謀事件の計画の始まりについて紹介していきます。
堂々たる貴公子、王殺しを企む
火薬陰謀事件の中心人物ロバート・ケイツビーは、誇り高きカトリックの一族に生まれました。
彼の姿を見た人々は、彼を「堂々たる美男子」と称し、その剣さばきと運動神経は名高かったといいます。
だが、その見かけに反して、彼の内には熾烈な決意が燃えていました。
エリザベス1世の時代、カトリック教徒が圧迫される中で、彼は武力で信仰を守ろうとする決意を固め、1601年にはエセックス伯の反乱にも参加したのです。
だが、この反乱は失敗に終わり、ケイツビーは負傷した末に捕らえられます。
しかし、王冠に対する反乱の代償として4,000マークの巨額な罰金を支払うことで命は助けられました。
その後、1603年にジェームズ1世が即位すると、ケイツビーは再び期待を抱きます。
この新しい王がカトリックに対する寛容政策を打ち出すことを期待して、ケイツビーと彼の同志たちはスペイン王フェリペ3世に対してイングランドへの侵攻を促す嘆願を行ったのです。
スペインはカトリック教徒を救うことに同情を示していたものの、最終的にはイングランドとの和平を望み、結局、1604年にはロンドン条約が締結されました。
これにより、スペインの軍事的支援の夢は潰えたのです。
ケイツビーはその絶望の中で新たな計画を練り始めました。
それが、貴族院を爆破し、イングランドの支配層を一掃する「火薬陰謀」です。
1603年6月、彼の友人であり、カトリックに改宗したトマス・パーシーが彼を訪ねました。
パーシーはノーサンバランド伯爵家に仕えていたものの、ジェームズ1世が即位した後、期待していた宗教政策の改革が実現しないことに業を煮やし、王を暗殺しようと決意したのです。
彼の怒りは抑えがたかったものの、ケイツビーは彼に「もっと確実な方法がある」として暗殺計画を一旦保留させました。
ケイツビーがこの「火薬陰謀」を最初に具体的に語ったのは1604年2月、彼の自宅でのことです。
その場にいたのは、ケイツビーの古くからの友人であり、優秀な学者であったトマス・ウィンターと、剣術の達人ジョン・ライト。
ウィンターは当初この計画に懸念を示したものの、ケイツビーの熱弁に説得され、参加を決意しました。
だが、ウィンターもケイツビーもまだ外国からの支援を完全には諦めていなかったため、ウィンターはスペインに最後の望みを託して再び交渉に向かったのです。
ウィンターはスペインで多くの人物と接触したものの、結局どの交渉も芳しい結果には至りませんでした。
しかし、この旅で彼は重要な出会いを果たします。
それが、ガイ・フォークスです。
フォークスはイングランド出身のカトリック教徒で、スペイン軍の兵士としてオランダ独立戦争に従軍した経験がありました。
彼の信仰と軍事的な経験が、ケイツビーの計画にとって不可欠であると判断したウィンターは、フォークスに計画への参加を求めたのです。
フォークスもまた、カトリック教徒としての信念を貫くためにこの計画に加わることを決意します。
1604年5月20日、ケイツビー、ウィンター、フォークス、パーシー、そしてライトの5人は、ロンドンの宿屋「ダック・アンド・ドレイク」に集まり、火薬陰謀の誓いを立てました。
彼らは祈祷書に手を置き、計画が成功するまで秘密を守り通すことを誓い合ったのです。
その誓いの直後、偶然にも同じ宿屋でミサを行っていたジョン・ジェラード神父によって聖体を拝領しました。
こうして、彼らの信仰のための命がけの陰謀は、正式に始動したのです。
その後、計画は次々と進展していきます。
彼らはウェストミンスター宮殿の地下室に火薬を集め、議会開会式の日に一気に爆破を行う準備を進めました。
だが、計画が進むにつれて、さらなる協力者が必要となり、ケイツビーは次々と同志を募ったのです。
ロバート・キーズ、トマス・ベイツ、クリストファー・ライト、ジョン・グラント、そしてフランシス・トレシャムといった面々が加わり、陰謀はますます広がっていきます。
参考文献
アントニア・フレイザー著 加藤弘和訳(2003)『信仰とテロリズム:1605年火薬陰謀事件』慶応大学出版会