安倍政権が総力戦で臨んだクジラ裁判の行方
早ければ11月にも判決
南極海で日本が行っている調査捕鯨は「事実上の商業捕鯨だ」として、反捕鯨国のオーストラリアが国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)に差し止めを求めた裁判の判決が早ければ11月にも言い渡される。
負ければ南極海での調査捕鯨は中止に追い込まれる日本側は口頭弁論で、外務省の切り札、鶴岡公二・現TPP(環太平洋連携協定)首席交渉官を投入するなど、総力戦の布陣で臨んだ。
傍聴席には、日本の捕鯨船団に悪質な妨害行為を続ける反捕鯨団体シーシェパードに加え、意外な顔があった。その顔にこそ日本が初の国際裁判に本気で臨んだ本当の理由が垣間見える。
エース投入
「代理人は外務省の国際法局長が務めるのが普通だが、国際法に精通し、英語もフランス語も流暢に操る鶴岡外務審議官(当時)に白羽の矢が立ったようです。外務審議官は次官級ポスト。日本がレベルを上げたのは明らかです」(日本政府関係筋)
6月中旬、英国・北アイルランドで開かれた主要国(G8)首脳会議で安倍晋三首相のシェルパを務めた鶴岡氏はその足でハーグに向かった。鶴岡氏は安倍首相から「頑張ってくるように」と声をかけられたという。
鶴岡氏の父、鶴岡千仭(つるおか・せんじん、1907~87年)は外務省国連局長、国連大使を務め、特に国連国際法委員として21年間在任した国際法の先達。「16人の裁判官の中には千仭さんのことを知っている人も含まれていました」(同)
現在、TPPの交渉に臨む鶴岡氏は6月26日から7月16日まで実に計41時間35分に及んだ口頭弁論にフル出場。異例の専従態勢が初の国際裁判にかける安倍政権の本気度を物語る。
鶴岡氏は日本側弁論の最初と最後に登場し、父の思い出に触れながら、「裁判所長、異なる文化の間に優劣を決めなければならないとすれば、世界は平和ではいられないであろうことを私ははっきりと申し上げたいと思います」と反捕鯨国の「魔女狩り」をバッサリと切り捨てた。
反捕鯨オーストラリアの論理
オーストラリアは、調査捕鯨で捕獲されたミンククジラの鯨肉は日本の市場に流通しており、「科学調査に名を借りた商業捕鯨だ」「クジラを殺さなくても科学調査は可能」「年間約1千頭の捕獲頭数は多すぎる」と主張。
南極海における日本の調査捕鯨阻止を公約に掲げて登場したラッド首相は2010年、機能不全に陥っている国際捕鯨委員会(IWC)に見切りをつけ、日本を相手に調査捕鯨の差し止め訴訟をICJに起こした。同じく反捕鯨国のニュージーランドも訴訟に加わった。
日本を含む多くのICJ加盟国は、相手国の提訴に応じる義務を受け入れている。このため、日本はオーストラリアの提訴に応じ自動的にICJの法廷で争わなければならない仕組みになっている。
ICJの公用語は英語とフランス語。英語を母語にするオーストラリア側でフランス語を使って弁論したのは1人だったのに対し、日本側は鶴岡氏、京都大大学院法学研究科の浜本正太郎教授(国際法)、パリ西大学のアラン・ペレ教授ら4人と語学力でまずオーストラリアを圧倒した。
十分な準備と訴訟戦略を練った被告・日本
口頭弁論をすべて傍聴した神戸大大学院国際協力研究科の柴田明穂教授(同)はこう解説する。
「国際社会における法の支配を外交の基本路線にしている日本として、国際裁判の場で自国の活動の合法性を国際法的にしっかりと主張していたと思います。今回、被告側の日本は通常であれば、十分な検討を経た上で訴えを提起できる原告よりも不利になるものですが、書面手続も含め、日本は原告・オーストラリア以上に十分な準備と訴訟戦略を練って、今回の裁判に臨んだと思います」
柴田教授は、国際捕鯨取締条約の解釈として調査捕鯨の権利を認めない判決が出るとは思えないと予測する。しかし、JARPA(南極海鯨類捕獲調査)2の規模や方法についてICJが厳しい条件を付けると、現実的にJARPA2を継続できなくなる恐れはあるかもしれないと指摘する。
焦点のJARPA2の捕獲枠
クジラの資源管理を目的にしたJARPAから生態系モニタリングを加えたJARPA2に切り替えた05年以降、日本は調査捕鯨の捕獲枠をミンククジラ440頭から一気にミンククジラ最大935頭、ザトウクジラ50頭、ナガスクジラ50頭に拡大した。皮肉にもこれを境に捕鯨船団に対するシーシェパードの妨害はエスカレートし、10年度に調査捕鯨は初めて中止に追い込まれた。12年度の捕獲頭数はミンククジラ103頭と、調査捕鯨が始まった1987年以降で最低に落ち込んだ。
口頭弁論でも日本側証人、オスロ大学のラース・ワロー名誉教授が「ザトウクジラとナガスクジラは調査捕鯨の対象に含まれるべきではない。ミンククジラの捕獲枠がどのようにして決められたのか本当のところわからない」と証言。日本側証人がJARPA2の規模と方法に疑問を唱えるハプニングが起きた。
しかし、絶滅の恐れのある野生動植物を保護するワシントン条約の元事務局長、ユージン・ラポワント国際野生生物管理連盟会長は反捕鯨の論理に惑わされてはいけないと強調する。「オーストラリアにとって数が問題なのではありません。あくまで捕鯨の伝統と文化を根絶やしにすることが狙いなのです」
日本では00年末に約1900トンだった鯨肉の在庫量が商業捕鯨国アイスランドからの輸入本格化で一時5000トンを突破。売れ残った鯨肉がドッグフード材料に使われているというニュースも流れる。「戦後の食糧不足の時代ならまだしも、わざわざ南極海まで出かけて行って調査捕鯨をする必要があるのか」という主張も国内で大手を振り始めた。
クジラを追いかけて30年という東京海洋大大学院海洋環境学部門の加藤秀弘教授は「IWCの商業捕鯨モラトリアムで供給量が少なくなったので、鯨肉を食べる人口が少なくなるのは当たり前。反捕鯨国の外圧によって食の多様性が失われるのはおかしい。そもそもIWC科学委員会で議論すべき問題をICJに持ち込んだオーストラリアに疑問を感じる」と反論する。
非致死性の調査も可能だが、期間が100年に及ぶ内容のものもあり、「それでは調査を行う意味がない」(加藤教授)という。
捕鯨国ニッポンの論理
シーシェパードにかき回され、オーストラリアによって国際法廷に引きずり出された格好の日本だが、逆に国際社会に対し、IWCを通じて商業捕鯨再開を目指す姿勢を示す良い機会となった。鶴岡氏以上に捕鯨国ニッポンの立場を訴えたのは日本側弁護人、カナダ・マクギル大学のパヤム・アカバン教授(国際法)だ。
アカバン教授は捕鯨の歴史から掘り起こし、裁判官に語りかけた。日本の小和田恆氏を含む判事16人のうち10人は反捕鯨国出身だ。
〈クジラを食す文化と伝統を持つ日本、アイスランド、ノルウェー、その他の先住民族と違い、日本に開国を迫った米国、英国、オーストラリアはかつてクジラを乱獲して照明ランプ用の鯨油だけを採取して他は廃棄した。石油生産で鯨油価格は暴落し、後者の国々は捕鯨から撤退するばかりか反捕鯨を声高に唱え始めた〉
アカバン教授の弁論は続いた。
〈オーストラリアのフレーザー首相は1979年、同国議会で「クジラは特別で知的だ。政府は南極海を含むオーストラリアの漁業水域でのすべての捕鯨を禁止する」と宣言した。反捕鯨はオーストラリアの国是になった。ラッド現首相は1期目、日本の調査捕鯨を阻止するため海軍の艦艇を派遣して情報収集する可能性を示唆し、シーシェパードのポール・ワトソン代表から称賛された。オーストラリアの元環境相は環境テロリストのレッテルがはられるワトソン代表を「世界で最も偉大な環境保護活動家の1人」ともてはやした〉
アカバン氏はこうした事実を列挙し、「オーストラリアは南極海の実力行使をシーシェパードにアウトソースしているように見える」「まるで反捕鯨十字軍だ」と糾弾した。
そもそもオーストラリアは近隣国との兼ね合いから南極海の排他的経済水域(EEZ)について自らICJに留保を申し立てているのに、その海域について裁判を起こせる権限があるのかと日本側は弁論を締めくくった。
オーストラリアはこの訴訟のため日本円にして20億円を費やしたと言われる。敗訴すれば有権者の理解は到底、得られまい。
判決の行方
公平性を期すため、反捕鯨の立場からクジラ裁判をウオッチしたオーストラリアの有力紙エイジ(メルボン)のアンドリュー・ダービー記者に国際電話で感想を聞いてみた。
「日本もオーストラリアも弁論の限りを尽くしました。ICJはオーストラリアの裁判を起こす権利を認めるでしょう。判決は日本の勝訴、オーストラリアの勝訴、第3の道の3つが予想されますが、第3の道の可能性が一番高いと思います」
第3の道とは、南極海での調査捕鯨の権利を日本に認めた上で、JARPA2の捕獲枠を削減することをIWCで協議することだ。
「これはオーストラリア政府にとって非常に悪い結果です。IWCでは南極海での日本の調査捕鯨にストップをかけることができないと考えて、ICJに提訴したわけですから、振り出しに戻ったわけです」
ダービ記者は、9月7日のオーストラリア総選挙で政権が交代しても南極海での調査捕鯨を認めないという政府の立場は変わらないと断言した。しかし、オーストラリア政府は「裏庭」である南極海での捕鯨をやめさせようとしているだけで、日本が北太平洋で商業捕鯨を再開しても反対の立場はとらないだろうと分析した。
また、日本が南極海での調査捕鯨枠を減らすことについて、シーシェパードの妨害行為も一因だが、調査捕鯨を実施している日本鯨類研究所の財政問題も大きく、以前ほど日本政府が調査捕鯨に精力を傾注できなくなったことも背景にあると指摘した。
判決は遅くても来年1~2月には言い渡される見通しだ。日本に調査捕鯨を行う権利を認めた上でIWCに差し戻す形の判決になった場合、再び出口のない議論が繰り返されるのか、商業捕鯨再開に向けて捕鯨国、反捕鯨国双方の大胆な妥協が図られるのかを予測するのは時期尚早だ。
傍聴席に陣取った韓国大使
「在オランダ韓国大使館からの傍聴者が法廷にいたのが興味深かった。きっとこの裁判を影ながら真剣に分析しているのは、韓国と中国でしょう」と前出の柴田・神戸大大学院教授。
沖縄県・尖閣諸島をめぐって中国が日本をICJに提訴する見込みはないが、島根県・竹島を不法占拠する韓国が国際裁判に応じる可能性はないとは言い切れないと外交筋はみる。
国家は何世紀もの間、領土、エネルギー資源、海洋へのアクセスを求めて争ってきた。こうした歴史を背景にICJで争われる紛争も領土と領海に関するものが最も多い。
ICJで解決された紛争事例は少なくない。1986年、ブルキナファソとマリの国境紛争は両国がICJの提案した国境線を受け入れた。サッカー・ワールドカップの試合を引き金に「サッカー戦争」が勃発したこともあるエルサルバドル・ホンジュラス間の境界紛争にも92年、ICJが設けた別の裁判部によって終止符が打たれた。
安倍政権の右傾化を指摘する声は強いが、日本はICJに提訴されれば自動的に応じる義務を受け入れている。
日本の関係者は「日本は国際法を重視する国で、ICJの場でも国際法に基づいて客観的にみても説得力のある議論を展開できた。国際裁判にはやってみなければわからないことがたくさんある。若手からベテランまで良い経験ができた。クジラ裁判で負けることは想定していない」と胸をはった。
今回の口頭弁論、日本にとっては領土紛争を国際法廷で解決する姿勢を国際社会に示す良い機会だったとも言えそうだ。(おわり)