母は“貧乏“だから、ブラック企業を辞められない!
「ワーキングプアとか、プア充とか。“プア”なんて、軽い言葉で言ってほしくないです。僕の母は、ブラック企業で働いています。でも、辞めません。なぜなら、貧困だからです」
これは、ある大学で講義後のレポートに、ひとりの学生が書いていたものである。
プア――。
確かに、貧困と表現するより“軽い”。特に最近は、「プア充」なんて言葉も流行っているので、余計に軽いイメージがある。念のため補足しておく。プア充とは宗教学者の島田裕巳氏が勧めている生き方のことだ。
「年収300万円というと、『それってワーキングプアじゃない?』『貯金できないし、結婚もできない』と思うかもしれないが、今の日本では100円ショップや格安ネット通販がそろっていて、むしろ楽しく幸せに暮らしていくことができる」と、島田さんは説く。
昇給・出世するにはプライベートの時間を削り、身を粉にして働くことが求められる。出世したとしても仕事量が増えるばかりで、仕事がラクになるわけではない。だったら仕事に縛られずにそこそこ働き、年収300万円ぐらいで自分の生活を充実させていこう。収入が低いからこそ豊かで安定した生活ができて、楽しく幸せに生きられる。そんな生き方=“プア充”を勧めているのだ。
「貧乏だからこそ、ちょっとした幸せを見つけられる」
「貧乏のほうが、本当の豊かさがわかる」
「貧乏って、確かに苦しいけど、それはそれで楽しかったりする」
「だから、貧乏って悪くない」
そういう考え方は大切だし、「経済成長命!」「カネカネカネ!」とばかりに、フツーの人たちまでもが株価に一喜一憂している世の中よりも、精神的な豊かさを追求したほうが、よほど健康的だとは思う。
でも、これは、「稼ごうと思えば、稼げるチャンスがある人」だからこそ勧められるし、受け入れられる。
以前、ホームレス研究のお手伝いをした時に、「これが“ワーキングプア”の実態なのか」と考えさせられたことがあった。
「30過ぎると、仕事がない。やっと見つけて働いても、生活が成り立たない。家賃が払えなくなってホームレスになった。ホームレスっていうと、みんな働いてないと思ってるかもしれないけど、仕事をしている人が多いですよ」。元フリーターのホームレスの方が、こう教えてくれたのだ。
一生懸命まじめに働いても、生活が成り立たない。働いているのにまともに生活できないから、ホームレスになるしかない――。
普通に働けば、普通に生活できる社会の構築を目指すのは、ごくごく当たり前のこと。ところが、その異常事態は今もなお、続いている。女性の貧困を伝える番組は多いけれども、言葉にしがたい違和感を抱くことも少なくない。
前述の学生のレポートは、講義で本田宗一郎さんの生き方を健康社会学的に紐解いていったときに提出されたものだ。
「本田宗一郎が貧乏だったというのには、とても親近感を持ちました。『貧困な人は、早く自分の得意なものを発見して、大切に育てよう。それが心の支えになり、栄光への力強いバックボーンともなる』という言葉は、とても心に残りました。母は、『一生懸命勉強して、とにかく大企業に入りなさい』って言います。大企業に入れば、本田宗一郎のバックボーンとなった技術のようなモノが、僕にも見つかるのか? よくわかりません。ただ、ひとつだけわかっているのは、僕の家庭は貧困だということです」
「母は、ずっと働いています。正社員ではありません。なのに、いつも働いています。ブラック企業で働いています。でも、辞めません。なぜなら、貧困だからです。ワーキングプアとか、プア充とか。“プア”なんて、軽い言葉で言ってほしくない。貧困は……、そんな生易しいものじゃない」
こうレポートに書いていたのである。
講義では「本田宗一郎の貧困」にスポットを当てたわけでも、ワーキングプアとか、プア充などという話をしたわけではない。でも彼は、私も含む社会に、訴えたかったんだと思う。
「先生、僕みたいな学生がいること、わかっている?」
「本田宗一郎の生き方には、勇気をもらえたけど、僕にそんなことができるのかな? どうしたら本田宗一郎みたいになれるのかな? 先生教えてよ」と。
学生たちのレポートには、必ずといっていいほど、「自分の不安や葛藤」が書かれているのだが(私が「書いて!」と言ったわけではない)、彼も不安を伝えたかったのだろう。
怒りと不安。感情のゆれが、痛いほど伝わってきた。その揺らぎが、「“プア”なんて、軽い言葉で言ってほしくない」という、文章になった。うん、多分、きっと。少なくとも私にはそう思えた。
実は、今からちょうど2年前にも似たようなことがあった。
「僕の母は、僕を育てるために、ずっと安い時給のレジ打ちをやっています。好きなことなんか何もできていないし、やりたいことなんかやっていないと思う。でも、ずっとずっとレジ打ちをやっています。やりたいと思って、やりたいことができる人は恵まれている人」
そう書かれたレポートを提出した学生が、2年前にいたのである。
今回の大学とは別の大学の異なるテーマの講義だったのだが、その講義で私は、「『やりたい』という気持ちを大切にしてほしい」と、学生たちに話していた。やりたいことの機会すら得られない人たちにとって、それがいかに冷酷な言葉であるかを、全く考えることもないままに、だ。
どちらの大学も、壇上に立って学生を見渡す限り、どの学生もおしゃれで、『貧困』という言葉とつながるイメージはない。しかしながら、そんな外見からはうかがい知ることのできない、“社会との隔たり”を、彼らは感じていた。それは、“私”との隔たりでもある。
私は、「貧困」と訴える彼のレポートを読んで、なんだかとても申し訳なく思った。彼らが感じる隔たりを私は感じたことがあったのだろうか、と。2年前の学生とは違い、「私の発言」に対してのものではなかったけれども、それでもやはりドンと胸を突かれた気分になった。
で、自戒の念も込めて誤解を恐れずに言わせてもらうと、プア充なんて生き方が流行るのも、ホントに“プア”をわかっていないからなんじゃないかと。いや、その壁の存在にすら、気付いていないのかもしれない。
おそらく 本当に「プア=貧困」な人たちは、誰一人として声をあげていない。だって、生きることに精一杯で、働いて食べていくことに必死なわけで。自分たちの状況を伝える手段もわからないし、それをしたところで、何の足しになるかもわからない。悲鳴を上げた途端、自分が壊れてしまうような恐怖もあるのだと思う。
最近は、正社員の賃金アップばかりが、報道では取り沙汰されているが、非正規雇用者の労働環境は、ちっとも改善していない。いや、むしろ悪くなっているといっても過言ではない。
つい先日も、女性の賃金が男性に比べ、かなり低いことが伝えられた。理由は非正規が多いこと。非正規雇用の平均年収は、168万円とされているが、性別でカウントすると、男性225万円に対し、女性143万円となっているのだ(国税庁「平成24年度分民間給与実態統計」)。母子家庭では半数以上が、貧困とされている。
また、国税庁の「民間給与実態統計調査」によれば、ワーキングプア(年収200万円以下の労働者)の人数は、2001年の861万人から増え続け、2011年には、1000万人超。
一方、富裕層(投資可能なお金を8千万円以上持っている人)は、2001年から1.5倍も増え、182万人。しかも、「対総人口比」にすると、日本はアメリカの1.4倍も富裕層が多く、なんと世界一の富裕層大国だ。
所得格差が拡大すると、エリートたちに政治的権力が集中し、その地位を安定させるようなイデオロギーを受け入れさせ、その優位を保つようになるとされているが、その罠に今の日本はハマってはいないだろうか。
だいたい、なんで女性活用だの何だのいいながら、女性の政治家がこんなにも少ないのか。おかしな話だ。
日本の女性議員の少なさは、世界でも最低レベルだ。
女性の政治家が増えることの最大の利点は、等身大の、市民の肌感覚に合った政治になることだ。クオータ制や同数制などで、女性議員を増やした欧州や、アメリカの州などで、その効果が検証され、特に女性、子供、家族関連法案が成立しやすくなったと報告されている。
もともと政治参加の低かった女性たちを、強制的にでも候補者として擁立すると、医師、教師、ボランティア、銀行員、主婦などが政治家となる。2世議員などの政治家一族や、経営者などエリート層とは全く異なる視点が、政策に生かされるようになる。
すると、もともと政治的関心の低い女性有権者たちの関心も高まり、「古い政治(old politics)」に風穴が開けられるのだ。
もちろん女性議員を増やすだけで解決される問題ではないけれど、女性貧困の解決策のひとつとして、真剣に考えてもいい問題だと思う。
え? ホントに解決したいとはオッ様たちは思っていないって?
いや、それだけじゃないく、数少ない女性議員も、女性富裕層たちも、女の仮面をかぶった“オッ様”なのかもしれません。