「生き別れた娘に一度逢いたい」という想いを支えに生きる、病に倒れた男の物語
愛娘との別れ
間も無くに迫った7月29日。癌に冒された男にとって、特別な日だった。
24年前、1995年の7月29日。男は一人娘を授かった。自分の祖母と妻から一字ずつをとって名付けた愛娘だったが、残念ながら現在はどこで何をしているか分からない。ステージ4と診断された癌に蝕まれ、入院先のベッドの上で「ひと目、娘に逢いたい」と願う日々が続いている。
1964年11月29日生まれで現在54歳の竹内一浩。父・敏光、母・絹代の下、愛媛県に生まれ、4歳下の弟と育てられた。
小学4年生から始めた野球に夢中になり、高校では甲子園を目指した。83年に高校を卒業すると上京。一流会社でカラオケの営業として汗を流した。
転勤先の松山にいた88年、テレビで初めて競馬を観た。芦毛の怪物対決で、オグリキャップがタマモクロスをくだし初めて制した有馬記念だった。
その後の転勤で広島へ行くと競馬好きの仲間が出来て毎週WINSに通うようになった。更なる転勤で東京へ戻ってからは府中や中山に通うようになった。
「トウカイテイオーが大好きで1年ぶりの出走で勝利した有馬記念(93年)は大興奮しました!!」
そんな頃、1人の女性と結婚。95年7月29日には女の子を授かった。翌96年にはディーラーに転職した。
「その頃は子供の顔を見るのを楽しみにして会社から帰っていたのを覚えています」
しかし、そんな幸せな生活は長くは続かなかった。98年、娘がまだ3歳の可愛い盛りに離婚。全親権が別れた妻に委ねられた。
その後、娘との面会が許され、2人で動物園に行った時の事を今でも忘れられないと言う。
「靴を履かせてあげている時、ふと顔を見たら、彼女は家族連れの人達を見ていました。あの時は『どんなに苦しくても親のエゴで別れてはいけないのかな?』って思い申し訳なく感じました」
突然の癌宣告
当時は携帯電話もない時代。転勤が多かった事もありやがて前妻と連絡が取れなくなってしまった。
「私の実家に一度、連絡があったようです。でも、父が妙な気を使ってしまい、私の連絡先を先方に教えませんでした」
それっきり互いの仲はぷっつりと途切れてしまった。
その後、2度目の結婚をした竹内が、2016年に健康診断を受けると驚きの検査結果を告げられた。
「悪性リンパ腫と診断され、抗がん剤を打ちながら年スパンでの治療が必要だと言われました」
会社を辞め、治療に専念した。一年間、入退院を繰り返し抗癌剤を打ち続けた。
「副作用で髪の毛が抜け、手足が痺れるようになりました。味覚も狂いました」
一年後、3ヶ月おきの検診は欠かせないもののなんとか退院までこぎ着けた。無職でいたそんな頃、縁があって東京の荻窪にお店を持つ事になった。こうして「競馬バー・ラプソテイク」をオープンした。
「店名は一口で持っていた馬の名前を元につけました。最初は苦労しましたが、徐々に競馬ファンのお客様が来てくださるようになりました」
軌道に乗り出したと思えた矢先の19年1月の事だった。
「検診で今度は肺に癌が見つかりました」
ステージ4と診断された。抗癌剤を打ちながら、入退院を繰り返す闘いが再び始まった。苦しい闘病生活の支えは妻の献身的な態度だった。
「会社を辞める時も病気の身でありながら店を持つと言った時も、全て好きなようにやらせてくれました。お見舞いも毎日欠かさず来てくれるし、本当に感謝してもし切れません」
そんな愛妻に、唯一、話せていない事があると言う。
「こうして重い病気になり、ベッドの上で『あとどのくらい生きていられるのだろう?』と考えると、無性に生き別れた娘に逢いたくなるんです。これは妻には話せていません」
話せば理解はしてくれると思うけど、と話を紡ぐ。
「娘の事を忘れた日はありません。ただ、今さら逢いたいと言うのも自分の勝手ですよね。幸せでいてくれればそれで良い。だから逢いたいというか、そんな姿を見てみたいという方が正しいかもしれません」
とは言えやはり、逢いたい、話してみたいという気持ちもあるというのが、正直なところだろう。7月29日で24回目の誕生日を迎える彼女に、もし逢えたらなんと言葉をかけたいですか?と最後に問うと、しばらく黙った後、竹内は口を開いた。
「ごめんね……ですかね……」
竹内が癌と闘い入退院を繰り返す日々はまだ続いている。そんな短い退院期間の中でも、店を開けられる日には開けている。いつか偶然にも娘が店を訪ねて来てくれれば……。そんな想いがあるのかもしれない。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)