【光る君へ】藤原道綱の母の『蜻蛉日記』には、夫藤原兼家との悩みが綴られていた
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道綱の母が石山寺で「まひろ(紫式部)」と「さわ」に面会し、妾(側室)の悲哀を切々と訴えていた。
この話はフィクションとしても、道綱の母の結婚生活はあまり良いものではなかったようである。以下、その点を確認しておこう。
道綱の母は、藤原倫寧の娘として誕生した。生年不詳。承平6年(936)頃という説もある。道綱の母の弟は、三十六歌仙の一人の長能であり、姪は『更級日記』作者の菅原孝標女だった。したがって、文才に恵まれた一族だったといえよう。
天暦8年(954)、道綱の母が兼家と結ばれた。すでに兼家には正室の時姫という妻がおり、2人の間には嫡男の道隆が生まれていた。天暦9年(955)になって、道綱の母と兼家との間に道綱が誕生したのである。
結婚当初、兼家は藤原道綱の母のもとを頻繁に訪れていたが、だんだん訪問する機会が減っていった。その理由は、兼家に新しい女性ができたからだった。道綱の母といえば『蜻蛉日記』が有名だが、その日記には兼家に対する結婚生活の不満が綴られている。
『蜻蛉日記』の成立は、天延2年(974)以降とされている。日記の書かれた期間は、天暦8年(954)から安和元年(968)、安和2年(969)から天禄2年(971)、天禄3年(972)から天延2年(974)までと断続的になっている。そこには、兼家に対する不満が綴られていた。
道綱の母が道綱を産むと、先述のとおり兼家は新しい女性のもとに通い詰めるようになった。それまでの熱心な求婚がまるで嘘のようだった。やがて、道綱の母は新しい愛人のことで悩まされ、兼家との関係に悩み苦しむようになった。その間のさまざまな出来事が『蜻蛉日記』に書かれている。
ところが、道綱の母の兼家に対する愛情がゼロになったわけではない。貞元2年(977)に兼家が左遷されると、兼家は円融天皇に長歌を贈り、許しを乞おうとした。その長歌は道綱の母が代作したものであり、兼家が自分で作っていないといわれている。
兼家が左遷されたとき、子の道綱も同様に酷い目に遭ったので、母として何とかしようと思ったのだろう。道綱の母は兼家との関係が良くなかったので、その愛情を子の道綱に注いだのである。