東電の広報責任者は、記者会見担当者を組織の盾にしてはいけない
9月6日、福島第一の作業員が、作業を終えて着替えているときに、ノドの痛みを訴えて医療室で診察後、緊急搬送の必要ありとしてドクターヘリでいわき市立総合磐城共立病院に搬送された。
東電は週が明けた8日の会見でこのことを発表。当日に公表しなかった理由は「原発の作業とは関係がない」と、東電が判断したからと説明した。
一方で、病名は「プライバシー」だとして公表を拒否。このため8日の会見では、記者から「東電が判断するのはおかしい」という声が続出していた。。
これまでも東電は、傷病者が救急搬送されるても「作業との因果関係はない」と東電が判断した場合、「病名はプライバシー」として、詳細を明らかにしてこなかった。事故直後には、死亡が確認されたあと、何日も発表しなかったこともあった。名前も出身地もなにも明らかになっていないのだからプライバシーは確保されているとして、記者側から病名を明かすよう求められたこともあったが、「ご意見として承る」と回答し続けていた。
8日も東電は同じ説明をしたが、まずテレビ朝日記者が先陣を切って「プライバシーというが、この人がどのヒトか、プライバシーというが、年齢も伏せているのでつまびらかにしてもいいのではないか。仕事とは関係ないというが、東電から説明してもうけとめられない」と批判。さらに「判断するのは東電ではない。御社が判断して、事実ではなかったこともある」と、これまで事実と違う説明をなんども繰り返してきたことを指摘した。これに続けて日経、日テレ、フリーランス記者も批判を展開した。
ただこの件の本質は、東電が会見担当者(この日は白井原子力立地本部長代理)を盾にして、組織や責任者を守っている疑念があることにある。本来、責任を追及すべきなのは、決して表には出てこない広報部門の責任者だ。
東電の広報部門は、現在は「坂井田健司」広報部長(14年6月27日付着任。前職は、広報部・原子力報道担当)、役員の「大河原正太郎」常務執行役(秘書部、広報部担当)が責任者だ。坂井田広報部長の前任者は「矢野伸一郎」氏(現在は多摩支店長兼組織改革準備担当)だった。
矢野前部長は、2011年11月1日に、電事連派遣から戻って広報部長に就任。しかし就任後は一度も、定例会見に姿を見せなかった。その矢野氏の前任者だった鈴木和史氏は、事故直後からしばらくの間、会見に姿を見せていて、会見担当者が回答できないことを引き受けていたこともあった。もっともその中で、ウソをついたこともあった。
現在の坂井田広報部長も、一度も定例会見に出てきていない。
今回の件で問題なのは、「病気と作業に因果関係がない」という判断を、現場を管理する東電がして、その根拠や、判断の責任者さえ明らかにしないことだ。東電は、病気はプライバシーだというが、会見で指摘されたように個人が特定できる情報は出ていないのだから、プライバシーは確保されているはずだ。
このような判断根拠になる情報を出せないのであれば、せめて福島第一の発電所で判断したのか、本店で判断したのか、本店ならどこの部門で判断したのかくらいは明らかにすべきではなかったか。そうしたことすらできないのであれば、責任者が説明すべきではないだろうか。
しかし東電は、理由も示さず自らの正当性を強調する。そのことを、会見担当者に強弁させ、決定権のある責任者は裏に隠れて出てこない。批判の矢面に立たされるのは、常に会見に立つ現場担当者だ。
しかしいま、追求すべきは広報の責任者だ。
今回の件では、単に病気と作業の因果関係にとどまらず、事故から3年半が経過して情報公開が後ろ向きになってきた東電の姿勢はおかしいということが改めて認識された。このような情報公開に対する方針に責任を持っている上層部が現場の会見担当者の影に隠れているのは、あまりにも無責任だ。現場の会見担当者を組織の盾にしてはいけないのだ。
追記
記事を書き終えた頃、現場作業員からの連絡で、件の作業員の病名がわかった。東電の資料によれば、この作業員はノドの痛みで医療室に行った際、腹の調子が悪いことを医師に伝えた。そのため診察をしたところ、腹部大動脈瘤切迫破裂の疑いと診断され、ドクターヘリで救急搬送されたのだという。なるほど、病名を聞けば因果関係なしというのもわからなくはない。しかし公表しない理由は、やはりわからない。東電は、本人が公表をいやがることがある、と説明するが、納得はできない。過去、東電は長期間、生死すら明らかにせず、批判が高まったことで公表に至ったこともある。こうした経緯を思うと、東電の説明を鵜呑みにするわけにはいかない。せめて東電は、地下水バイパスのためにくみ上げた地下水の分析を第三者機関に依頼しているのと同様、病気についても独立性のある機関に検証を依頼すべきではないだろうか。そうでなければ、東電のいうことを信じろ、ということになってしまう。