日本人で初めてフランスで調教師となった男にとって、7月が特別な月と思える理由とは……
個性的な仕事を求め入った馬の世界
今回はフランスで開業する日本人調教師を紹介しょう。
小林智。
千葉県船橋出身。父・菊男、母・凉子の下、2つ上の兄と共に育てられた。
「新聞社勤務だった父が競馬のファンでした。だから僕も小学生の頃には馬の名前を聞いていました」
最初に印象に残ったのはミスターシービーだったと言う。同馬は1983年の年度代表馬。シンザン以来19年ぶりの三冠馬ということで話題になった駿馬で、当時まだ9歳だった小林の耳にもその名前は達していたようだ。
それから5年。88年の皐月賞にミスターシービーを父に持つ馬を発見。注目すると2着に好走した。
「シャコーグレイドでした。まだ中学生だったけどこれで完全に競馬にハマりました」
日大理工学部4年の頃、北海道に行った際、牧場で馬に跨った。「個性的な仕事をしたい」と思っていた小林は卒業と同時に牧場に就職した。
「母は『好きな事をやれば良い』と言ってくれたけど、普段、何も口出しをしない父が珍しく反対しました。大学まで出て何で牧場なんだ?!と思ったのかもしれません」
それでも最終的には認めてくれた事で小林の人生が大きく動き出した。
「コアレススタッドで働かせていただき、最終的には育成の責任者をやらせてもらいました」
その間、海外の研修にも出向かせてもらった。オーストラリアやイギリス、アイルランド等にも渡ったが、最も心を動かされたのがフランスだった。
「2000年にシャンティイを訪れた際、マダム・クリチャン・ヘッド調教師(後に2年連続凱旋門賞制覇のトレヴ等を管理)に広大な調教場を案内してもらいました」
彼女の厩舎の馬が何十頭も1度に調教をするシーンを目の当たりにして身震いした。また、武豊の出演したドキュメンタリー番組で、天才騎手が森の中の調教に跨る姿を見て、ますますフランスへの憧れが強くなった。
導かれるようにフランスへ
2年後の02年、持ち前の行動力でかの地へ飛んだ。人づてにジョン・ハモンド調教師を紹介してもらい、そこで働き出したのだ。
彼がフランスへ渡ってすぐに私も知り合った。当時、フランス語はたどたどしかったが、漲るやる気は感じられた。現地でフランス語を教わりながら、毎朝、真摯にサラブレッドに向き合ううち、厩舎長にまで上り詰めた。
また、フランス語教室が縁で、現地で日本語を教わる女性と知り合った。やがて2人は恋に落ち、07年に入籍した。
その頃にはリチャード・ギブソン厩舎へ移り調教師代行のような仕事までしていた小林だが、一旦帰国した日本で、再び彼の人生を左右する出来事に遭遇する。
「凱旋門賞を目指すというメイショウサムソンの陣営を紹介していただきました」
何か手伝える事があれば、とフランスへ戻ったが、馬インフルエンザで遠征は中止となってしまう。しかし、再びフランスに渡った小林に帰国する意思はなかった。
「以前から考えてはいた事だけど、フランスで調教師になろうと心を固めました」
ミケル・デルザングル厩舎で働きながら調教師試験に挑んだ。日本同様の難関。通訳をつけての受験も認められていたが「将来、ここで開業するのであればフランス語が出来ないようでは話にならない」とこの権利を放棄。現地の言葉で受験した。
結果、この狭き門を突破。日本人として初めてフランスでの調教師が誕生した。
父危篤の報せに、夫人がとった行動は……
「最初はソヨカゼとザディヴァインという2頭からのスタートでした」
前者は吉田照哉、後者はフランス人の関係者が馬主だった。そんな開業直後の09年7月、実家から連絡が入った。
「父の体調はかなり良くないという連絡でした」
すでに長男も生まれていた小林は、夫人と子供を連れて緊急帰国。入院先を見舞うと驚く出来事があった。
「かなり危ない状態と聞いていたのに、会話が出来ました」
一安心してフランスへ戻った。すると……。
「すぐにまた連絡が入り『危篤に陥った』と聞かされました」
当時はまだ従業員もいない厩舎を1人で切り盛りしなければいけなかった小林。何日も厩舎を空けるわけにはいかないと再帰国を拒んだ。父もその点は理解してくれるだろうと自分に言い聞かせる小林に声をかけてきたのは夫人だった。
「『お父様の最期は看取ってあげるべき』と言う彼女の手には日本行きの飛行機のチケットが握られていました」
7月16日、帰国した小林に見守られ、父は天に召された。
それから約1週間後の同月24日。ザディヴァインがヴィシー競馬場で出走した。道中は最後方。厳しい戦いを覚悟した小林の目の前で、同馬は見えない力に押されるように進撃を開始。最終的には2着に5馬身の差をつけて快勝。これが小林にとって嬉しい厩舎開業初勝利となった。
「父が押してくれたのかな?と思いました。忘れられない勝利になりました」
その後、そして現在
その後、年々、管理馬は増え、成績も残せるようになっていった。一昨年の16年には19勝。自己最多勝記録を更新した。5人の従業員を雇う今年はまだ5勝(7月20日現在)だが、1頭あたりの獲得賞金では全仏7位と健闘を見せている。
「毎朝6時から仕事で、自分でも2~3頭は騎乗します。そんな感じで1年中、休み無しですが、アンドレ・ファーブルやエイダン・オブライエンらを相手に戦える仕事は楽しいです」
また、オルフェーヴルやゴールドシップ、近年ではサトノダイヤモンドに現在、滞在しているジェニアルとラルクなど、日本馬の遠征にも馬房を貸与、藤岡佑介や田中博康といったジョッキー達の欧州研修時も現地での道先案内人として力を貸している。
「色々な人にお世話になって今があるので、自分も出来る限り皆様に様々な面で還元出来るように生きなければいけないと考えています」
それもこれも何も言わずに見守ってくれた父と母の教育のお陰だと感謝の言葉を紡ぐ。
「お陰で僕も曲がった事が嫌いな性格に育ちました」
現在は夫人との間に2人目の子供である女の子を授かった小林にとって、父の命日と厩舎の初勝利に挟まれた7月20日は誕生日にあたる。今年で44歳となる彼の、異国での奮闘に期待したい。
(文中敬称略、写真提供=平松さとし)