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カラシティーがレッドソックスとマイナー契約。過去にヤクルトからメジャーに「出戻った」外国人選手は…

菊田康彦フリーランスライター
ヤクルト退団後、2019年はマリナーズでプレーしたカラシティー(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 2018年に東京ヤクルトスワローズでプレーしたマット・カラシティー(29歳)が、1月22日付でボストン・レッドソックスとマイナーリーグ契約を結んだ。現地メディアによると、カラシティーは招待選手としてレッドソックスの春季キャンプに参加するという。

カラシティーはヤクルトで7勝3セーブ、退団翌年にメジャー復帰

 2016年にコロラド・ロッキーズでメジャーデビューを果たしたカラシティーは、2018年にヤクルト入り。クローザーの役割を期待されながらこれを全うできず、シーズン途中で配置転換されたものの、最終的には先発13試合を含む32試合の登板で7勝3敗3セーブ、1ホールド、防御率4.18という成績を残した。走者にタッチに行ってユニフォームを泥だらけにし、打っては7月27日の阪神タイガース戦(神宮)でソロ本塁打を放つなど、成績以上に印象に強く残る選手だった。

 1年限りでヤクルトを退団した後は、シカゴ・カブス傘下のマイナーを経て2019年6月にシアトル・マリナーズでメジャー復帰。「オープナー」として5試合の先発マウンドに上がるなど、登板11試合で0勝1敗0セーブ、防御率4.66を記録した。昨年はサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結ぶも、右ヒジのトミー・ジョン手術を受けてシーズン全休。今季は2年ぶりのメジャーのマウンドを目指すことになる。

 カラシティーはヤクルト退団後、既にメジャーに復帰しているが、彼のようにヤクルトでプレーしたのちにメジャーリーグの舞台に返り咲いた外国人には、どんな選手がいるのだろう? その顔ぶれを振り返ってみる(以下、カッコ内はヤクルト在籍年度)。

ヤクルトを経てメジャー復帰は「赤鬼」ホーナーが第1号

 球団史上、メジャーリーグでのプレー経験を引っ提げて入団した外国人はサンケイアトムズ時代のルー・ジャクソン(1966~69年)が初めてだったが、彼は4年目のシーズン途中に病死。その後もニューヨーク・ヤンキースなどで通算219本塁打を誇った“大物”ジョー・ペピトーン(1973~74年)、チャーリー・マニエル(1976~78、1981年)、ジョン・スコット(1979~81年)、ラリー・ハーロー(1982年)など、元メジャーリーガーが何人もヤクルトに入団したが、退団後に米球界に復帰する選手はいても、メジャーに舞い戻る者はいなかった。

 ヤクルト退団後にメジャーリーグの舞台に返り咲いた「第1号」が、1987年に入団したボブ・ホーナーである。メジャー通算215本塁打を誇り、前年はアトランタ・ブレーブスで四番を打っていた29歳のスラッガーはわずか93試合の出場で31本塁打を放ち、「赤鬼」の異名を取るなど日本中に旋風を巻き起こした。

 当然、ヤクルトは翌年の契約もオファーしたのだが、ホーナーが選んだのはメジャー復帰の道。シーズン終了後にセントルイス・カージナルスと契約を結び、翌1988年の開幕戦で四番バッターとして再びメジャーリーグの舞台に立った。ところが、左肩の故障もあって60試合の出場で打率.257、3本塁打と振るわず、翌年はボルティモア・オリオールズとマイナー契約を結んだものの、開幕前に現役引退を発表している。

「ミミズ男」ハドラーは、メジャー復帰後にキャリアハイ更新

 メジャー復帰後に自身のキャリアハイを更新したのが、1993年にヤクルトでプレーしたレックス・ハドラーだ。1978年のドラフトでヤンキースから1巡目(全体18位)で指名され、メジャー4球団でプレーしたのちに野村克也監督率いるヤクルトに入団。練習中にミミズを生きたまま食べたことから「ミミズ男」と呼ばれたが、それだけではない。打順は主に下位ながら、打率.300、14本塁打の好成績でリーグ優勝、そして野村ヤクルト初の日本一にも貢献した。

 ヤクルト在籍は1年だけで、翌年はカリフォルニア(現ロサンゼルス)・エンゼルスで内外野のユーティリティーとしてメジャー復帰。エンゼルス3年目の1996年には92試合に出場して、打率(.311)、安打(94)、二塁打(20)、三塁打(3)、本塁打(16)、打点(40)などの部門で、メジャーでの自己ベストを更新した。

 野手ではその後もジェラルド・クラーク(1994年)、ヘンスリー・ミューレン(1995~96年)、ジム・テータム(1997年)、ライル・ムートン(1998年)、マーク・スミス(1999年)が、ヤクルト退団後にメジャー復帰。2008年限りで退団したウィルソン・バルデスは翌2009年にニューヨーク・メッツでメジャー復帰すると、2010年はフィラデルフィア・フィリーズで自己最多の111試合に出場し、ほとんどの部門でキャリアハイを更新している。

 また、来日1年目の1992年にヤクルトで首位打者と本塁打王の二冠、そしてリーグMVPに輝き、1995年には読売ジャイアンツに移籍したジャック・ハウエルも、巨人退団後の1996年にはエンゼルスでメジャーの世界に舞い戻った。

投手でのメジャー返り咲き第1号はバニスター

 投手では1990年にヤクルト入りし、翌年はエンゼルスでプレーしたフロイド・バニスターが「メジャー返り咲き」の第1号になる。もともとは1977年のドラフトでヒューストン・アストロズから全米NO.1指名を受けたサウスポーで、メジャーで7年連続を含む8回の2ケタ勝利をマークするなど、来日までに通算133勝を記録。マリナーズ時代の1982年には、ア・リーグ奪三振王のタイトルを手にしたこともあった。

 ただし、ヤクルト入団時点で既に34歳。前年に受けた左肩手術も尾を引き、9試合の登板で3勝2敗、防御率4.04と期待に応えることはできず、シーズン途中で解雇された。それでも翌年はエンゼルスでリリーフとしてメジャー復帰。1992年はテキサス・レンジャーズに移籍すると36試合に登板し、5月27日のシカゴ・ホワイトソックス戦では救援で3イニングを無失点に抑えて、メジャーでは3シーズンぶりの白星を手にしている。

 その後は、ヤクルト退団後にメジャーに返り咲く投手はなかなか現れなかったが、2010年に入団したエウロ・デラクルスが翌年にミルウォーキー・ブリュワーズでメジャー復帰してからはクリス・ナーブソン(2014年)、ローガン・オンドルセク(2015~16年)、プレストン・ギルメット(2017年)、そしてカラシティーが続いている。

 なお、1998年にヤクルトで0勝に終わったトラビス・ドリスキルは、2002年にオリオールズで8勝と“大出世”しているが、これは「メジャー復帰」ではなく「メジャーデビュー」。2015年に球団新記録の41セーブをマークするなど14年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献し、翌年はレンジャーズで53試合に登板して7勝3敗15ホールド、防御率2.09の好成績を残したトニー・バーネットもヤクルト入りする以前はメジャー経験がなく、これが32歳でのメジャーデビューだった。

フリーランスライター

静岡県出身。小学4年生の時にTVで観たヤクルト対巨人戦がきっかけで、ほとんど興味のなかった野球にハマり、翌年秋にワールドシリーズをTV観戦したのを機にメジャーリーグの虜に。大学卒業後、地方公務員、英会話講師などを経てフリーライターに転身した。07年からスポーツナビに不定期でMLBなどのコラムを寄稿。04~08年は『スカパーMLBライブ』、16~17年は『スポナビライブMLB』に出演した。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』(カンゼン)。編集協力に『石川雅規のピッチングバイブル』(ベースボール・マガジン社)、『東京ヤクルトスワローズ語録集 燕之書』(セブン&アイ出版)。

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